江戸時代

豪徳寺の招福猫児

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 日本人のカワイイもの好きは

  今や世界中に有名ですが

 その頂点にいるのがお猫さま

  (^_^;)

 

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江戸時代の初め、武蔵野でのこと。

とある大名が鷹狩りの帰り、小さな貧乏寺の前を通り掛かった。

ふと大名が寺の山門に目をやると、1匹の白猫が座っており、しきりに大名を招く仕草をしている。

奇妙に思って境内に入ると、住職も驚いた様子で出てきて

「なんのご用事でしょうか?」

と大名に尋ねた。

その寺に大名が訪ねてくることは、めったにないことだったからだ。

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大名が猫に招かれたことを言うと、住職は

  「確かにその猫は当寺で飼っているものだが

   今までそのようなことをしたことがない」

と首をひねった。

しかし、せっかくの縁ですので粗茶でも召し上がっていってください、と言って一行を寺に上げた。

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すると、一同が客殿に上がって間もなく、激しい雷雨となった。

大名は

「猫はこの雷雨にあわぬよう

 寺に上がっていけと言っていたのか」

と感心するとともに、会話の端々から知られる住職の徳の高さにも感服したのだった。

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この大名は彦根藩主の井伊直孝(いいなおたか、←)で、これをきっかけに井伊家はこの寺を井伊家の菩提寺とした。

寺は直孝の法名から寺号を豪徳寺とし、以後、大きく発展を遂げた。

その後、この直孝を寺に呼び込んだ猫の姿を模して縁起物としたのが、招き猫の起源だといわれる。

現在、東京都世田谷区の豪徳寺を訪ねてみると、境内には招猫殿というお堂があり、その前には大小の招福猫児(まねきねこ、豪徳寺は招き猫をこう呼ぶ)像が無数に並んでいる。

商売繁盛などを祈願してかなった人たちが奉納したものという。

招き猫というと三毛猫のイメージがあるが、豪徳寺の招福猫児は伝説に基づき白猫となっている。

なお、招き猫の起源については、台東区の今戸神社など複数の説があり、どこが最初なのかは分かっていない。

 

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散歩 荻生徂徠のお墓

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昨日2/13は天気が良かったので、散歩しました

このところ寒かったので、家の中をいろいろ断熱DIYしていたのですが、そのとき直角測定の必要性を感じ、三田にあるケーヨーD2というDIYショップ(ホームセンター)で指矩(さしがね)を買いました

プロの大工さんは、たぶんもっと大きいのを使いますが、私はアマなので30センチの小さいやつ(↓、327円)

ちなみに私はDIYツール(日曜大工道具)を買う場合

1)百均ダイソーなど 超安いけど、安いなりにショボい、品揃え少ない

2)通販アマゾンなど 何でもあって割と安いけど、実物を見れない、送料かかる場合あり

3)三田のケイヨーD2 少し高いけど、たいていのものは揃う

4)渋谷の東急ハンズ 高いけど何でも揃うし、店員さんが相談に乗ってくれる

の順番で探します

 

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そのあと通りを歩いていたら、「史跡 荻生徂徠」という表示があったので入ってみました

元禄赤穂事件(忠臣蔵)では、義士を賛美して助命を願う世論に対して、徂徠は切腹論を説いた

そのお墓が、泉岳寺の近くにあるというのも歴史の皮肉

(^_^;)

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役者・奥野瑛太

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革命や敗戦などで体制がひっくり返ると、旧体制の上層部も路頭に迷う

明治維新では旧幕臣の多くが、単なる失業者に転落した

江戸時代初期には、多くの藩が「お取りつぶし」になって、藩士は禄を失った

何か武士以外の特殊技能を持つことは、本物の武士にとって恥とされていたから、ツブシが効かない人も多くいたことだろう

映画「一命」では、失業した武士の一家が内職をしながら、極貧の中で細々と暮らしていて涙を誘う

(T_T)

 

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朝ドラ『エール』の「智彦さん」(奥野瑛太(←)は、当時のふつうの人である。

がちがちに真面目で、家でも威厳を保つ主人である。

外で起こったことを、家内では話題にしない、というタイプだった。

これは軍人にかぎらず、昭和前半の家庭風景としては、ふつうのことだったとおもう。

ふつうの血の通った人として描かれていた。

軍人だったから、戦争が終わると路頭に迷う。

軍人は「政府の役人」でもあり「戦争という特殊技術の人」でもあった。

でも戦争が終わり、軍は解体されて再軍備は禁止されたので、それまでのキャリアがまったく使えない。

過去のキャリアが何も役に立たない、ただの無職である。

職を探して苦労している姿が見られた。

すべてをもてあましてる感じが出ていて、その姿を見せる役者・奥野瑛太が見事だった。

この人は、とても身体性を強く感じさせる役者だとおもう。

セリフを言う前の存在感がきちんとしていて、その佇まいだけで見入ってしまう。

再就職のときに彼の出した履歴書が映しだされていたが、それには赫々たる履歴が並んでいた。

陸軍幼学校から士官学校に進んだエリートで(幼学校は当時の中等学校にあたる)、卒業後、騎兵隊第十九連隊の少尉に任官。

最後は中佐まで昇進している。すごいエリートである。

最後の昇進はいわゆる「ポツダム昇進」、つまり敗戦が決まってからの昇進ではないかとおもわれるが、それまででも少佐である。

すごく偉い。なんか、軍人さんの位で偉さを測るのは裸の大将をおもいだしてしまうのだが、でもそういうしかない。

履歴書が映し出されたあとに、工場の鉄屑拾いの仕事があるといわれ、そんなものができるかと、憤然と席を立つシーンがあったが、たしかにそうだろう。

陸軍中佐は、ふつう鉄屑拾いをやらない。

プライドがあまりに高い。

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読書 葉隠入門

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「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」で有名な佐賀鍋島藩に伝わる思想書「葉隠」を、三島由紀夫が自分流に解説している

世の中には、損得で動く人間と、そうではない人間がいる

後者でなければ大業は成し得ぬと言ったのは西郷隆盛だが、現実の社会は前者が大部分を占めている

損得で動く人間の行動は予想しやすいので安心感がある

けして無茶な行動には走らない

経済学などは、そのような合理的人間を前提として理論を構築している

しかし江戸時代、家臣が主君への忠の覚悟と生き方(死に方)を本気で貫くには、損得の感覚では具合が悪い

損得を超えた武士の哲学が必要とされ、それに応えたのが「葉隠」だった

「葉隠」は、損得勘定の武士道を、上方流(商人のようだ)と罵っている

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一方、三島由紀夫(→)は天才にありがちな、かなり変わった価値観(性的嗜好と言ってもよい)の持ち主であり、「美しく高貴に死にたい」という潜在欲求(タナトス)が極めて旺盛だったように思われる

彼はそのために、自らの死を正当化し、美化し、高貴なものとするための壮大な内面世界を構築し、作品化し、行動化していった

三島にとって「葉隠」は、そのような内面世界構築の材料としては、非常に魅力に富んでいたものと思われる

「葉隠」の思想を語った山本常朝には、死を自己目的とする意識は希薄で、ただひたすら主君への忠を貫くには、生と死の二者択一の場面では、常に死を選ぶ覚悟を持てと主張しているに過ぎない

それは、三島が45歳で自決の道を選び、山本常朝が61歳(当時としては長命)で天寿を全うした違いとなって表れている

死を本気で覚悟した人間には、それまでの世間(損得勘定の世界)が従来とはまったく違って見えるのは、何となく想像できる

近松門左衛門が、死を覚悟して心中への道行(駆け落ち)に出た男女二人は「急に背が伸びた心地がする」としているのは、まことに鋭い描写だと思う

本当の人生や美意識というものは、その感覚の後に生ずるものかもしれない

(^_^;)

 

世田谷・杉並の真っすぐ道路

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今回、九州や広島を旅したんですけど、特に博多の街の道路が広いのが印象に残りました

道がまっすぐで、車道だけでなく歩道も広いので、歩いていてとても気持ちがいい

これは「太閤の町割り」と言われる、豊臣秀吉による都市計画のおかげだそうです

秀吉の若い頃の、大らかな性格が伝わってきます

一方、東京は徳川家康が作った町ですが、道が狭くてぐにゃぐにゃ曲がっている

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これは猜疑心の強い家康が、敵から攻められた場合を考えて、わざと攻めにくい都市計画をしたことに関係があるらしい

用心深い家康のおかげで、日本人は世界でもまれに見る260年間もの長い平和を享受した訳ですが、都市計画には向いてない性格だったようです

(^_^;)

 

* * * * * * * * * *

 

世田谷区と杉並区にわたって、8km以上続く一直線の道路があります。

都道に指定されているこの道路、成り立ちは大正時代までさかのぼります。

地図で都内を見ていると、小田急の祖師ヶ谷大蔵駅付近から丸ノ内線の新高円寺駅付近まで、一直線に道路が走っているのが見えます。

この道路は東京都道・高円寺砧浄水場線に指定されています。

現地に行くと、大部分がセンターラインのない狭い道路ですが、ほぼ全線が直線のため、道路がはるか遠くまで続いていくのを見通すことができます。

東京の街並みは武蔵野台地とそれを川が浸食していった地形の関係で起伏が大きく、道路もその起伏に合わせてほとんどが曲がりくねっています。

にもかかわらず、この直線道路はどうしてこんなにもまっすぐ走っているのでしょうか。

実はこの道路の真下には、「荒玉水道」と呼ばれる直径1.1mの水道管が通っています。

荒玉水道はさかのぼること大正時代、増加する東京の人口の水需要に対応するため、多摩川で取水した水を都内に送るのを目的に設置工事が始まりました。

そして、埋設水道管の敷地を歩行者道として活用したのが、この直線道路のはじまりです。

現在は自動車も通行可能となっていますが、水道管への荷重を考慮し、重量制限が掛けられていたり、ラバーポールによって物理的に幅員が制限されているところがあります。

また、狭隘な道路のため、一部区間では一方通行となっています。

この道路を東急バスや小田急バスのバス路線が通っていますが、重量制限のある区間を走る路線は、小型バスで運行されています。

 

 

熊本城

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熊本に来ています

熊本地震の被害は甚大で、熊本城の復旧も道途上といった感じです

日本全国の石垣業界(あるのかどうか知りませんけど)は、いま熊本に終結して活気づいているようです

復興に尽力されている方々には申し訳ないんですけど、崩れた石垣というのは、無常感に訴えるものがあって、すごくいいです

崩れた石垣にご興味のある皆さん、いまが見るチャンスですよ

(^_^;)

 

読書 江戸藩邸物語

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先日読んだ『実見・江戸の暮らし』は、主に町人の生活を描いたものだが、この本はその武士バージョンと言える(著者は異なる)

直前まで戦場で殺し合いをしていた荒くれ武士たちが、天下泰平の江戸時代になったからといって、急に頭の回路を切り替えることは出来なかった

17世紀の江戸では、歩いていて刀のサヤがぶつかったとか、道を譲らなかったとか、詰まらない原因で口論となり、斬り合いになることが非常に多かった

「勇と忠」という武士道の2要素のうち、「」が圧倒的に優先されていた

悪く言えば当時の江戸は、凶暴なヤクザや狂犬のような連中がウロウロしている、かなり危険な街だった

そこで遠慮したり後ずさりしたりすれば、「腰抜け武士」と馬鹿にされるので、武士のメンツとメンツが正面からぶつかり合う、実に殺伐とした時代だった

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しかも主君からは「武士にあるまじき卑怯者」として切腹を申し渡されたりする可能性もあるので、互いに一歩も引けない緊張感が満ちていた

やがて江戸幕府や諸藩は、たくさんの法度(行動規範)を定めて対策を講じ、荒くれ武士を平和な時代の従順なサラリーマン武士へと、時間をかけて誘導してゆく

18世紀に入ると、武士道の「」が優先されるようになり、現在の平和な日本が形成されてゆく

本書は、ある藩の江戸藩邸に残された詳細な日記から、当時の「時代精神」をさぐる

(^_^;)

大阪駅近くで大量の人骨

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江戸には小塚原刑場があり、1651年から1873年(明治6年)まで使用され、合計20万人が処刑されました

単純計算すると年間900人、毎日3人が死刑になりました

掘れば、すさまじい量の人骨が出てくると思われます

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犯罪者は、伝馬町牢屋敷に収容され、お白洲(裁判所、→)で死刑が決まると、小塚原などの刑場で処刑(はりつけ、火あぶり、打ち首獄門など)されます

牢内は牢名主による完全自治制が敷かれていたので、基本的に何が起きても役人は関知しなかった

牢内の人員が増え、狭くなって牢内生活に支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた

規律を乱す者、いびきのうるさい者、差し入れのない者などが、ひそかに殺された

殺人後は「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった

ひどく野蛮のように見えるが、当時の西欧では魔女狩り裁判などで、もっと野蛮だった

権力に逆らったら即死刑、現在の北朝鮮や中国と同じ

当時は10両(現在価値で大雑把に100万円)盗んだら首が飛ぶと言われ、厳罰主義だった

この影響が今に残り、現在の日本は、世界一治安が良いのかもしれない

(T_T)

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▲牢内の様子 左上にいるのが牢名主

新入りの囚人がリンチを受けている

板で叩かれているが、実態はもっと凄惨なものだった

右上にいるのが牢役人で、牢名主の家来たち

左下は差し入れなどがある、特別待遇の客分

何も無い下っ端は右下のように、体を伸ばす自由も無かった

夜もこの姿勢のままで眠った

 

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JR大阪駅北側の「うめきた」2期計画の準備が進んでいる。

2024年夏の街開きを目指す約16㌶の大型再開発事業だ。

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都市公園を中心に医療や健康産業を誘致して最先端のビジネス拠点にするという”未来の健康都市プラン”だが、その足元から200体を超える人骨が出て来たのだからびっくりだ。

300年以上の眠りから覚めた江戸時代の”亡霊たち”。その突如出現した顛末は──。

「うめきた」は旧国鉄梅田貨物駅の跡地約24㌶を新しい街に変える壮大な事業。

東側の1期区域では、13年にグランフロント大阪が完成した。

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読書 実見・江戸の暮らし

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いやぁ、グイグイ引き込まれるほど面白かった!

歴史の本にはなかなか出て来ない庶民の生活を、実にリアルに分かりやすく描いている

著者は江戸時代の生活を描いた絵を数千枚も所有していて、その絵の中に現れた庶民生活をこまめに拾っているので、文献資料だけに頼った歴史家よりずっと現実感のある描写が可能になっている

歴史書の面白さは、説明力より描写力にあるように思う

著者は江戸時代をテーマにした小説家で、1933年生まれの86歳

著者の子どものころの庶民の生活は、現在よりも江戸時代に近かったようなところもあり、最近80年ほどで、日本人の生活スタイルが激変したことがよく分かる

特に面白かったのは、江戸時代の旧暦(太陰太陽暦)と、明治以降の新暦(グレゴリオ暦)の違いで、これほど分かりやすい説明は他に無さそう

歴史の本を読む楽しさは、現在とは異なる時代精神に触れることだと思い、そのために最近は中世史関係を多く読んでいるのだが、わずか200年ほど前の日本でも、これだけ違う生活があって、それなりに合理的に動いていたことが分かって、非常に楽しむことが出来た

(^_^;)