50歳からの 江戸人形町散歩 



2011年8月24日(水)




オフィス・飲食店・住居が混在する街並みで、街路は狭く一方通行の道路が多い。飲食店が連なる甘酒横丁という通りが有名。また、老舗店舗が多い。

毎年8月に人形町通りで行われる「せともの市」は、夏の恒例行事となっている。

江戸時代、堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、歌舞伎小屋の中村座と市村座があった。また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)も行われていた。

一般には人形遣いが多く住んでいたから人形町と名付けられたとされている。江戸時代においては、人形町は通りの名で大坂町、島町、住吉町、和泉町、堺町、芳町がこの通りに面していたが、1933年(昭和8年)に正式にこれらの町名が「人形町」という町名に変更された。

日本橋地域のほぼ中央に位置する。

江戸時代初期には、遊郭で有名な吉原(元吉原)が人形町通り東側の辺りにあった。「大門通り」はその名残である。1657年(明暦3年)1月の明暦の大火(振り袖火事)で辺り一帯が焼失した事を機会に、幕府の命で遊郭は浅草寺裏の日本堤付近に移転した(新吉原)。

堺町と葺屋町にあった芝居小屋は、1841年(天保12年)12月の火災の後、天保の改革の一環で浅草猿若町(現・台東区浅草6丁目)に移転した。

1951年(昭和26年)に東京初のアーケードが完成(現存せず)。昭和末期頃までは和陶器卸が集まっていた。 夏の「せともの祭り」はその名残。
















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