1655年に創建され、吉原遊廓の誕生(1657年)よりも2年早い。寺のウェブサイトによると、同寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。
「病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に「〜売女」という戒名で文字通り投込まれた」という説もあるが、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっている。 この場合素裸にされた上に荒菰(あらごも)に包まれ、寺に投げ込まれた。「人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」という六道の考えによったとものとされている。 新吉原総霊塔 - 関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られている。 「生まれては苦界、死しては浄閑寺」といわれた吉原遊女の哀しい生涯に感じた永井荷風。その文学碑や筆塚もある。 |