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慶応義塾キャンパスを歩く
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慶応義塾図書館(旧)
2024年1月26日(金)
慶応義塾大学 三田キャンパス 塾史展示館
▼MAP▼
▼001▼慶応三田キャンパスまで歩いているところ
左は建設中の高輪ゲートウェイ駅ビル
▼002▼外装工事は半分以上終わった感じ
▼003▼手前は東京都水道局の水再生センター(浄水場)
▼004▼この線路は、東海道新幹線の東京駅と車両基地を結んでいる
並行してもう1つ線路があって、これは羽田新線になる予定
▼005▼高輪ゲートウェイ駅ビルの3つ目は、まだ造り始めたばかり
▼006▼港南側から高輪側へのトンネル この先に天井が異常に低い部分がある
▼007▼トンネルを抜けると、そこは工事現場だった
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▼009▼さっきの、高輪ゲートウェイ駅ビルの3つ目
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▼012▼途中に神社があったので寄る(御田八幡神社)
御田は「みた」と読むので、慶応三田キャンパスの「三田」の語源かな?
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▼018▼この付近は高層ビルの建設ラッシュで、神社が谷間になりそう
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▼020▼江戸時代に幕府の高札場があったので、「札の辻」と呼ばれている
▼021▼慶応義塾大学の三田キャンパスに着いた
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▼023▼今日はまん中の展覧会がお目当て
▼024▼知名度が高い割に、入ってみると意外に狭いキャンパス
▼025▼有名な図書館の建物が見えてきました
▼026▼福沢諭吉は三田キャンパス内に住んでいて、ここが終焉の地
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▼029▼慶応義塾で「先生」と呼んでいいのは
福沢諭吉だけと聞いたことがある
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▼031▼有名な八角塔のある図書館(旧)
▼032▼歴史を感じさせる塾監局の建物
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▼034▼図書館(旧)の入り口
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▼037▼塾監局
▼038▼図書館(旧)の一部が、塾史展示館になっている
福沢諭吉研究センターもある
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▼040▼図書館(旧)に入ってすぐのロビー
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▼049▼晩年の福沢諭吉は、いつもこんな職人か商人みたいな格好をしていた
とても大学の創設者には見えないし、学者にすら見えない
偉ぶることを嫌った諭吉らしい姿
▼050▼本人の才能や思想が、時代の要求にピッタリマッチしたという意味で
世の中にめったにいない幸福な人生ではないかと思います
▼051▼若き日の「電力の鬼」松永安左エ門が福沢諭吉と出会い
「教師に向かって、そんな丁寧な挨拶をしなくていい」
「慶応義塾では、教師と学生に上下関係は無い!」
と言われた有名なエピソードが動画化されて流れていた
▼052▼先日の甲子園で慶応高校が優勝したので、その展示もあった
▼053▼坊主刈りという高野連(朝日新聞)の古い体質
を拒否した慶応高校に、日本中が「自由な気風」を感じました
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▼057▼図書館(旧)以外に高い建物の無かったころ
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▼060▼写本で苦労した諭吉は、学生にそんな苦労をさせないように計らった
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▼065▼封建的な身分制度、差別制度をトコトン嫌っていた
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▼067▼諭吉の「自由な気風」は母親ゆずりか
▼068▼諭吉の「諭」の出典
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▼070▼展示室はこんな感じ
▼071▼「学問のすすめ」が刷れる巨大なスタンプ
よくスタンプラリーに置いてあるスタンプに比べて気が利いている
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▼076▼若き日の諭吉が学んだ適塾
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▼078▼江戸時代には「健康」という言葉は無かった
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▼083▼大量の書籍を輸入した諭吉 空海と似ている
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▼086▼昔の写真は感光時間が長く、ブレ易かった
▼087▼この格好でロンドンの街を歩いたのだとしたら
現地の英国人からかなり奇異の目で見られただろう
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▼090▼「二生」どころか、普通の人の100人分も生きた諭吉
▼091▼日本史に登場する偉大な人物を選ぶとしたら
空海、信長と並んで福沢諭吉は外せないと思う
▼092▼有名な諭吉の散歩は、このドラを合図に毎朝始まった
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▼100▼権威権力を嫌った諭吉
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▼110▼諭吉の「実学」は、「すぐ役に立つ」とは異なる
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▼122▼諭吉が出した新聞「時事新報」の創刊号
現在の官報に似た紙面
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▼129▼とにかくスゴい行動力だと思います
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▼151▼かつて慶応義塾は、京都、大阪、徳島にも分校があった
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▼159▼大臣を番頭にする改名は、今でも面白い案だと思う
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▼167▼「授業料」の創設 いかにも諭吉らしい
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▼170▼政治家が威張るのは後進国の現象
その極致が中国共産党
▼171▼複式簿記で苦労した諭吉
▼172▼すでに洋服が多いのに、諭吉は和服を着てますね
▼173▼権威的な袴(はかま)は嫌ったが、庶民的な着物は好きだった諭吉
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▼179▼諭吉が自筆した英文の手紙
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▼196▼自由を説いた諭吉は、第二次大戦中、「国賊」呼ばわりされた
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▼215▼後世「偉大な人物」とされる人は
出身地や同時代の人たちからは嫌われやすい
偉大すぎて凡人には偉大さが分からないのだろう
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▼217▼勝海舟と諭吉は、仲が悪かった
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▼231▼着物が好きだった諭吉が、珍しく洋服を着ている
▼232▼諭吉は「カネで女を買ったことが一度も無い」と広言し自慢していた
今では珍しくもないが、当時としては非常に珍しいタイプの男だった
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▼240▼日本最強の同窓会「三田会」の由来
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▼245▼オシャレな慶応ボーイの部屋
▼246▼汚らしい旧制高校の寮
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▼251▼このころの西洋では、女性の変な帽子が流行していた
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▼255▼いい言葉だねぇ (^_^;)
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▼264▼このあと、生協の売店とか、キャンパス内を歩きました
▼265▼有名な三田の演説館
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▼267▼図書館(旧)の中にある
「福沢諭吉研究センター」の前に置いてあった資料
これ6冊で2000ページ以上ありそうだけど
すべて無料で「自由にお持ちください」だった
さすが10000円札の顔、太っ腹です
帰りの荷物がズッシリ重くなりましたけど (^_^;)
▼268▼私は慶応義塾出身ではありませんが
福沢諭吉に興味を持っています
きっかけは、大学時代の江藤淳先生の授業「福翁自伝を読む」
福翁自伝は日本人が書いた自伝の中でも傑出した作品で、非常に面白い!
もう何度も読んで、生きる勇気をもらってます
以上で全部です 最後までご覧いただき ありがとうございました
歩くの大好き
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