ウルトラマン、ガンダム、ゴジラ、ドラゴンボール、ワンピース……。
世代を超えて心が躍るフィギュア3万体超が並んだ私設の「博物館」が、三重県にあります。
地元製薬会社の社長が、約2億円を投じて集めたコレクションの陰に、苦難の物語がありました。
収集癖は 男の子の永遠の夢!
見る人によっては 「金持ちの道楽」
に見えたりもしますが (^_^;)
三重県中部の多気町にある「万協フィギュア博物館」。
扉を開けると、人の背丈以上もあるフィギュアの数々が目に入ります。
記者(40)がファンだった「キン肉マン」、大学時代に夢中になった「エヴァンゲリオン」など、めったにお目にかかれない品の数々に驚きます。
「来館者はみんなその膨大さにあきれるんですよ」。
運営する松浦信男さん(56)はニヤリ。
2014年、経営する「万協製薬」の工場内に博物館を作りました。
日本の特撮やアニメだけでなく、スターウォーズやミリタリー作品なども「ごった煮」で並びます。
入館料は800円で、年間入場者は5千人にのぼります。
「いまだに、自分の倉庫を人に見せている感覚。全部僕が管理して店番にも入ります」
棚には小さなフィギュアが、むき出しで並びます。
触るのは禁止ですが、撮影は自由。
「ガラスがあると、撮影の時にハレーションを起こす。きれいな写真を撮ってもらいたい」という心遣いからです。
松浦さんは神戸市出身。幼稚園の時、鉄人28号のファンになります。
おもちゃも1個では飽き足りません。
「同じようでも素材や表現方法が違う。買ってくれない悔しさで、おもちゃ屋から離れない子でした」
小学校に進むと、ウルトラマンやミリタリーもののプラモデル作りに熱中します。
接着剤を使って、平面を立体にする作業が科学実験みたいで、はまりました。
親の理解は得られず、小遣いをため、塾に行く時にプラモを買い、パッケージは全部捨てて塾のカバンに入れて帰宅したとか。
「まるで隠れキリシタンでした」
宇宙戦艦ヤマト、マジンガーZ、ガンダムなどのアニメが始まり、ますますのめり込みます。
高校卒業後は2年間浪人。
1人でガンダムのプラモを作る日々を過ごし、20歳の時、父親が経営していた万協製薬に入社しました。
初任給はすべてガンプラに注ぎました。
やがて仕事が面白くなり、自分で薬を作ってみたくなりました。
薬剤師の免許を取ろうと、22歳で徳島県の大学に進みます。
80年代は「オタク」という言葉が否定的に使われた時代。
松浦さんも進学を機に、プラモやフィギュアは実家に置いてきました。
「一生2次元にのめりこむのは嫌だ」。
ミニFM局を運営し、バンドやサッカーに打ち込む。
そんな青春を謳歌していた矢先、「事件」が起こります。
大阪の模型メーカー「海洋堂」が、マニア向けの精巧な組み立て模型「ガレージキット」を発売。
松浦さんの心に火が付きます。
「帰省したときに買っては実家に置きました。それでいて、大学では『人生はロックだよ』なんて言って」
卒業後、再び家業に戻って結婚もしました。
家をフィギュアだらけにして、仕事も軌道に乗りだしましたが、1995年1月17日に未来が一変しました。
フィギュアにはまるきっかけだった鉄人28号の前でポーズを取る松浦さん
兵庫県でマグニチュード7.3を記録した阪神・淡路大震災。
実家や会社は倒壊し、貴重なフィギュアは、土の中に刺さり、がれきと一緒に捨てられました。
「大震災直後は喜怒哀楽が無くなりました」
そんな松浦さんを救ったのもフィギュアでした。
震災から約2週間後、仕事のためバイクで大阪まで行くと、模型店にウルトラマンのガレージキットが売っていました。
小さなバイクで来ているのも忘れて、大きな箱を衝動買いしました。
「会社も実家も、取引先や社員との絆も無くなった。でも、キットを見て、失った物はもう一度取り戻せばいいじゃないかと感じた。復興の一歩を踏み出すきっかけになりました」
1995年1月17日の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた三宮駅前
震災から1年半後、万協製薬は三重に移転し、再スタートを切ります。
工場2階に住み、がむしゃらに働きました。
塗り薬やクリームなどスキンケア商品の受託製造に活路を見いだし、売り上げを急成長させます。
移転から10年。自宅の横にプレハブを建て、コレクションを飾ります。博物館の原型となりました。
2014年、コレクションに注目したテレビ番組から取材オファーが来た時、撮影用に自社工場内のスペースを使って、フィギュアやプラモをずらりと並べました。
番組の反響が大きく、「博物館」として公開することにしました。
多気町は人口約1万5千人。目立った観光資源はありませんでした。
「世界で一番展示している自負心がある」。
博物館は評判を呼び、名古屋などからも客が来るようになりました。
町の商工会長も務める松浦さんは4年前から年2回、コスプレイヤーを呼び、町内にある廃校のプールや酒蔵、駄菓子屋などを撮影場所として提供する「おたコス」というイベントを行っています。
1回の来場者は千人。SNSで宣伝してくれ、「地の利は悪いこの街に、コスプレイヤーが来ることで光が当たった」と言います。
博物館には、フィギュアやプラモを愛した人の遺品も置いています。
棚などもそのままにして「生きていたら、こんな風に飾りたかったんだろうというコーナーにしました」
今も棚も増やし続け、博物館は成長を続けます。
松浦さんは出張先でも「2次会は結構なので、フィギュア店に連れて行って」とお願いするそうです。
会社を売上高34億3000万円(18年3月期)、従業員193人の規模に成長させ、自らのフィギュア愛も結実させた松浦さん。今後の夢は何でしょうか。
「フィギュア愛を隠して生きてきた僕が、支持されるまで50年近くかかりました。
メインではない文化は常に批判を受けるけど、僕はそれを守り、支援する人であり続けたい」。
小さな町から、サブカルチャーの歴史を紡ぎます。