大阪駅近くで大量の人骨

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江戸には小塚原刑場があり、1651年から1873年(明治6年)まで使用され、合計20万人が処刑されました

単純計算すると年間900人、毎日3人が死刑になりました

掘れば、すさまじい量の人骨が出てくると思われます

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犯罪者は、伝馬町牢屋敷に収容され、お白洲(裁判所、→)で死刑が決まると、小塚原などの刑場で処刑(はりつけ、火あぶり、打ち首獄門など)されます

牢内は牢名主による完全自治制が敷かれていたので、基本的に何が起きても役人は関知しなかった

牢内の人員が増え、狭くなって牢内生活に支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた

規律を乱す者、いびきのうるさい者、差し入れのない者などが、ひそかに殺された

殺人後は「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった

ひどく野蛮のように見えるが、当時の西欧では魔女狩り裁判などで、もっと野蛮だった

権力に逆らったら即死刑、現在の北朝鮮や中国と同じ

当時は10両(現在価値で大雑把に100万円)盗んだら首が飛ぶと言われ、厳罰主義だった

この影響が今に残り、現在の日本は、世界一治安が良いのかもしれない

(T_T)

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▲牢内の様子 左上にいるのが牢名主

新入りの囚人がリンチを受けている

板で叩かれているが、実態はもっと凄惨なものだった

右上にいるのが牢役人で、牢名主の家来たち

左下は差し入れなどがある、特別待遇の客分

何も無い下っ端は右下のように、体を伸ばす自由も無かった

夜もこの姿勢のままで眠った

 

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JR大阪駅北側の「うめきた」2期計画の準備が進んでいる。

2024年夏の街開きを目指す約16㌶の大型再開発事業だ。

写真①

都市公園を中心に医療や健康産業を誘致して最先端のビジネス拠点にするという”未来の健康都市プラン”だが、その足元から200体を超える人骨が出て来たのだからびっくりだ。

300年以上の眠りから覚めた江戸時代の”亡霊たち”。その突如出現した顛末は──。

「うめきた」は旧国鉄梅田貨物駅の跡地約24㌶を新しい街に変える壮大な事業。

東側の1期区域では、13年にグランフロント大阪が完成した。

写真②

2期事業は25年開催を目指す「大阪万博」との相乗効果を狙って財界、大阪府・市が一体になり、「関西再生」の目玉にしようと力を入れている。

白骨が出てきたのは、関空特急「はるか」が通過する2期区域の南西隅で、「北梅田駅」(仮称)が設置される予定の地域。

江戸時代から「梅田墓」と呼ばれていた約3000平方㍍と想定される墓域の一部約700平方㍍を発掘調査したところ、身を屈めて棺桶に入った土葬の人骨や骨壺に収められた火葬の人骨、土をかけて投げ込まれただけの人骨などが続々と出てきた。

人骨の周囲からは数珠玉、六文銭、かんざし、土人形など副葬品も数多く見つかり、中には子どもの骨もあって、生前遊んでいたものらしい「おはじき」が一緒に埋められていて、発掘作業の人たちの涙を誘った。

写真③

「梅田墓」は「曾根崎村千日墓地」と呼ばれ、江戸から明治の初めまであった「大坂七墓」の一つだ。

この時代、大坂の町には蒲生、千日、飛田など7カ所に墓地があり、盂蘭盆会(うらぼんえ)の旧暦の7月16日には町民たちが7つの墓を巡る「七墓巡り」が流行っていた。

夕方から翌日の未明にかけてすり鉦(がね)や木魚、鈴を鳴らし、扇子や団扇を手に提灯をぶら下げて練り歩いたそうだ。

写真④

近松門左衛門の代表作と言えば『曾根崎心中』だが、近松が得意とした実話を基にしたこの心中物語にも「梅田墓」が出てくる。

男と女が死に場所を求めてさまよう道行きで「梅田堤の小夜烏、明日は我が身を」というセリフはここを指している。

「七墓巡り」とは考えようによっては随分と不気味な行事だが、発掘調査にあたった大阪文化財研究所の高橋工・調査課長の説明はこうだ。

「もともとは肝試しとして始まったのでしょう。それがレジャーになり、若者にはデートコースになったりして流行り、そのうち供養になったと思われます」。

7つを全部回ると自分の葬式の時は晴れるともいわれたらしいが、墓地巡りというけったいな”ミステリーツアー”を考えつく浪速っ子の怖いもの知らずというか好奇心の強さには舌を巻く。

「梅田墓」はもともと天満周辺に点在していた墓を、曾根崎村の今の大阪駅前第1ビル周辺に集めたところから始まっている。

貞享年間(1684-1688年)の地域整備に伴って移転したのだが、「梅田」は名前の由来が「埋田」から来ていると言われているように泥田の埋め立て地で、アシが茂り、夏場は蚊の大群がすごくて近づけない土地だった。

利用価値のない人里離れた場所にできた「梅田墓」のそばには火葬場もあったという。

それが明治になって鉄道が敷かれ、大阪駅がつくられることから状況が一変する。

と言ってもそれにもまた事情がある。

汽笛一声の新橋-横浜間に続き、大阪-神戸間にも「陸(おか)蒸気」を走らせることが計画され、発着の大阪駅は当初、都心に近い堂島付近が候補地にあがった。

だが、「”火の車”が走りよったら火事になりよるやないけ」と地元が猛反対。

しかたなく、比較的近いが人家がない場所ということで「梅田墓」が選ばれた。

1874年(明治7年)に完成した初代大阪駅は今の大阪駅より少し西側の旧大阪中央郵便局の辺りで、イギリス人技師の手によって赤レンガのゴシック風の2階建てのオシャレな洋館が建てられると、すぐに人気の的になった。

写真⑤

とは言え、周辺はまだ一面たんぼで、菜の花が咲くだけ。

満足な道路も出来ておらず、堂島に近い桜橋から先は人力車も行ってくれない寂しい駅だった。

今の大阪駅舎は4代目で、梅田貨物駅は1928年(昭和3年)につくられた。

200体以上の人骨は目下、大阪市立大学の名誉教授のもとで鑑定・分析作業が進められている。

男女別、大きさ、病歴などを調べていて、「この作業が終われば丁重に供養して処分することになるでしょう」(高橋課長)という。

では人骨はもう出てこないかというとそうではない。

対象地域の4分の1を調査しただけだから、残り4分の3は手つかずのままである。

単純に推計しても全部掘れば600体以上は出てくる計算になる。

「あくまで発掘調査だったので、あとはそのままにしておきます」と大阪文化財研究所。

身元も定かでない江戸の人骨は”未来都市”の下でさらに眠り続けることになる。

さて、「うめきた」2期が完成すれば周辺の地価はまたハネ上がるに違いない。

ちなみに地価公示価格(17年)でみると、大阪駅周辺は平均で1坪(3・3平方㍍)当たり4016万5000円、一番高い地点(北区大深町4-20)は4628万1000円と目玉が飛び出るような超一等地だ。

写真⑥

しかし、「梅田すてんしょ」と呼ばれた開設当時の地価は坪25銭だったそうだ。

はがきが1銭、米1升(1・4㌔㌘)が5銭の時代である。

25銭は今なら2000円から3000円というところか。

それでも買い手がつかなかったという。

”化けた”のが地下に埋まっていた人骨ではなくて、地上の土地の値段だったとは、”亡霊たち”もさぞ驚いたことだろう。

 

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