涅槃会

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

35261000

buddha_nehan_pose

 

 クリスマスやバレンタインには大騒ぎするけど

  仏さまの誕生や入滅は、ほとんど無視って

 何なんでしょうねー

  (・_・?)

 

涅槃会(ねはんえ)は、涅槃講や涅槃忌とも称し、陰暦2月15日釈迦の入滅の日に、日本や中国などで勤修される、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。

現在では、3月15日に行なわれているところもある。

涅槃とは、迷妄のなくなった心の境地を指す言葉であったが、この場合には、釈迦が亡くなったという意味で用いられている。

実際には、釈尊が入滅した月日は不明であり、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日(ウェーサーカ祭)と定められている。

ヴァイシャーカ月が、インドの暦では第2の月であることから、中国で2月15日と定めたものである。

法要中は、釈迦が娑羅双樹の下で涅槃に入った際の、頭を北にして西を向き右脇を下にした姿で臥し、周囲に十大弟子を始め諸菩薩、天部や獣畜、虫類などまでが嘆き悲しむさまを描いた涅槃図(↑)を掲げ、仏遺教経』(↓)を読誦することとなっている。

 

 

* * * * * * * * * *

 

 

35261000

 

仏遺教経

 

ぶつゆいきょうぎょう

お釈迦様がお亡くなりになるときに

最後に遺された教えのお経

以下、現代語訳(↓)

 

buddha_satori_gedatsu_bodaiju

 

お釈迦様は最初の弟子アンニャ・コーンダンニャから最後の弟子スバッダまで、数多くの説法を行い弟子にしてきた。

弟子にできるものはみんな弟子にして、二本並んだサーラ樹の間に横になり、臨終を迎えていた。ときは夜中で周囲は静まり返っていた。

お釈迦様は集まった弟子たちのために最後の説法を行った。

 

* * * * * * * * * *

 

弟子たちよ、知っておいたほうがよい。欲張りな人は利益を多く求めようとして、悩みもまた多くなる。欲が少ない人は欲しいものもないのでこのような悩みがない。だから少欲ということを学びなさい。少欲が多くの功徳を生むのはいうまでもない。欲が少ない人は他人に媚びへつらって気を引こうとすることもないし、感情に流されることもない。欲が少ない人は心が平穏で恐れるものもない。何事にもゆとりがあり、足りないということは常にない。少欲の人には安楽がある。これを「少欲」と名付ける。

images

弟子たちよ、もし悩みをなくそうとするならば、知足を学びなさい。知足とは豊かで安穏なものである。足ることを知る人は、地面で寝るような暮らしを送っていても安楽である。足ることを知らない人は、豪邸で暮らしていても満足しない。足ることを知らない人は、裕福であっても心が貧しい。足ることを知る人は、貧しくても心が豊かである。足ることを知らない人は、いつも欲望に流されて、足ることを知る人から哀れまれる。これを「知足」と名づける。

弟子たちよ、穏やかで恐れるもののない安楽を求めるならば、喧噪の地を離れて閑静な地で独り暮らすがよい。閑静なところに住む人は、帝釈天や神々が篤く敬う。だから周囲の人とのしがらみを捨て、閑静な地で独り暮らし、悩み苦しみの原因を断つべきである。人々とのつきあいが好きな人は、その分さまざまな事柄に悩まされる。大樹に多くの鳥が群がれば、折れたり枯れたりする恐れがある。世間に束縛されると悩みから逃れられない。老いた象が泥沼にはまっておぼれ、自分で脱出できなくなるようなものだ。これを「遠離」と名づける。

弟子たちよ、もし努力を怠らないならば、何事も成就できないことはない。だからお前たちは、努力を惜しんではならない。少量の水であっても常に流れ続ければ、石に穴を開ける。修行者の心が度々なまけるのは、火を起こそうとしているのに熱くなる前に止めると、火を起こせないようなものである。これを「精進」と名づける。

弟子たちよ、師匠や仲間を探すよりも、自身の信念を忘れないに越したことはない。信念を忘れなければ、いろいろな煩悩が盗賊のように心に侵入することはできない。だからお前たちよ、いつも信念を心に持ち続けなさい。信念をなくしたら、さまざまな功徳を失ってしまうだろう。逆に信念が強ければ、欲望が盗賊のように心の中に侵入したとしても、それによって惑わされることはない。鎧を着て戦場に入れば、恐れるものがないようなものである。これを「不忘念」と名づける。

download

弟子たちよ、心をよく制御する人は、坐禅をして心を静めている。心が静まれば、世間の無常で移り変わる有様を知ることができる。だからお前たちよ、いつも努力して坐禅を学びなさい。いつも坐禅を行なっていれば、心が乱れることはない。それは水を大事に使う家が、堤防を作るようなものである。修行する人も同じで、智慧という水のために正しく坐禅をして、智慧という水を漏らさないようにするのである。これを「禅定」と名付ける。

hirameki_woman

弟子たちよ、智慧があれば欲や執着もない。いつも自分自身を省みて過失のないようにしなさい。そうすれば、私の教えの中で悟りを開くことができるだろう。そうしない人はもう修行者ではない。かといって在家信者でもない。中途半端で名づけようがない人である。真実の智慧とは、老・病・死の海を渡る丈夫な舟である。あるいは無明という暗闇を照らす大いなる灯明である。すべての病の苦しみを治す良薬である。煩悩の樹を切り倒す鋭利な斧である。だからお前たちよ、智慧の話を聞き、智慧への思いを巡らし、智慧を実践することで、自ら功徳を積みなさい。智慧の輝きがあるならば、神通力がなくても、真理を明らかに見ることができる人になれる。これを「智慧」と名付ける。

弟子たちよ、無意味な議論をすると、心が乱れるものである。心が乱れれば修行していても悟りを開くことはできない。だから弟子たちよ、心を乱す無意味な議論は即刻やめなさい。お前たちが心の平安を得ようと思うならば、無意味な議論の過ちをなくしなさい。これを「不戯論」と名づける。

downlo361178ad

弟子たちよ、数々の功徳の中でも、いつも一心に怠け心を、敵のようにして完全に捨て去るよう努めなさい。私が教えようとしたことは、全て説き尽くした。お前たちはただこれを実践するだけである。

山間、沢、樹の下、森林、静かな部屋のどこにいても、授けられた教えを心に留め、忘れないようにしなさい。いつも自ら努力して実践し続けなさい。

何もなさないまま、虚しく過ごして死んでしまえば後悔することになるだろう。私は、良医のように病をよく知って薬を処方したのである。薬を飲むか飲まないかは医者の責任ではない。あるいは、道案内のように、順路を示したのである。これを聞いて進まないのは、先導者の過失ではない。

弟子たちよ、苦しみと、その原因と、原因をなくすことと、そのための修行という四つの真理について疑問があったら、今すぐ質問しなさい。疑問を残して答えを出さないのはいけない。

 

* * * * * * * * * *

 

35261001

お釈迦様はこのように三度問いかけられたが、誰も質問する者はいなかった。弟子たちにはもう疑問がなかったからである。

その時、アヌルッダ(←)が、弟子たちの心を察してお釈迦様に申し上げた。

お釈迦様、たとえ月が熱くなり、太陽が冷たくなったとしても、お釈迦様がお説きになった四つの真理は決して変わりません。

お釈迦様がお説きになった苦しみの真実は本当に苦しみです。安楽に変わることはありえません。原因の真実は、まさに苦しみの原因であって、ほかに別の原因はありません。苦しみがなくなれば、原因がなくなるのですから、結果もなくなります。苦しみをなくす修行こそ、真の修行です。ほかの修行はありえません。

お釈迦様、ここにいる弟子たちは、四つの真理について理解しており疑問はありません。まだ修行を完成していないものは、お釈迦様が亡くなると大いに悲しむでしょう。修行を始めたばかりでも、お釈迦様の説法を聞けばたちまち救われるからです。それは真夜中に、稲妻で照らされて道が分かるようなものです。一方、修行を完成し、苦しみの海を渡った者も、お釈迦様が亡くなれば「お釈迦様が亡くなるのは、何と早いことだろう」と思うことでしょう。

アヌルッダはこのように語り、弟子たちは皆、四つの真理を理解していたが、お釈迦様は、大勢の修行者の修行が堅固であるように、慈悲の心で再びお説きになった。

 

* * * * * * * * * *

 

buddha_nehanbotoke_gold

弟子たちよ、悲しんではならない。私がたとえ何万年と生きようとも、生まれたものは必ず滅びるのである。生まれたのに滅びないということは決してない。自分も他人も幸せになる方法は、皆が理解した。

私がこれ以上生きていても、もう説くことはない。救うべき者は、神でも人でも全て救うことができた。まだ救っていない者にも、いずれ救われるように教えを遺した。今後、弟子たちが、教えを伝えて実践していけば、私は教えとして生き続け、死ぬことはない。

だから知るべきである。世界は、すべて無常であって、出会いがあれば必ず別れがくる。悲しんではならない。世界の真実がそうなのだ。お前たちも努力して早く悟りを開き、智慧の明かりによって無知の闇を照らしなさい。

aflo_20735058

世界は、実に危うくもろく、常住なものなど存在しない。私が今死ぬということは、悪い病から解放されるようなものである。これこそ、捨て去るべき最悪のものである。

それはいわゆる「身体」というもので、生・老・病・死の海に沈んでいる。どうして智慧ある者が、敵のように捨てるべき身体をなくして、喜ばないでいられるだろうか。

弟子たちよ、いつも一心に仏道を求めなさい。世間のあらゆるものは、いずれ壊れてなくなってしまうのだ。弟子たちよ、しばらく静かにして、話をしてはならない。時はまさに過ぎ去っていく。

私の最期がやってきた。これが私の最後の説法である。

 

* * * * * * * * * *

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。