訃報 米長邦雄 永世棋聖

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 
o0640086012335696992

獲得時49歳11カ月という最年長名人の記録を持つ、日本将棋連盟会長の米長邦雄(よねなが・くにお)永世棋聖が18日午前7時18分、前立腺がんのため東京都内の病院で死去した。69歳。山梨県出身。
09年1月にがん治療を受けていることを公表。自身のホームページでは最近、“遺言”とも思える内容を書き込んでいた。葬儀・告別式は24日に都内の斎場で営まれる。
米長さんの遺体は18日午前、東京都中野区の自宅に無言の帰宅をした。弔問した親族によると、自身の書斎に敷かれた布団に和服姿で安置されており「いい顔だった」という。病院での様子などについて、家族はインターホン越しに「コメントは差し控えさせてください」と話した。
関係者によると今年夏ごろから体調を崩し、先週から入院していたという。午後4時20分ごろには、谷川浩司九段(日本将棋連盟専務理事)、羽生善治3冠、田中寅彦九段が沈痛な面持ちで弔問に訪れた。
1963年、19歳でプロ棋士に。終盤のねじり合いで独特の感覚を発揮、難解な攻防に持ち込んで相手を迷わせ、勝利をつかむすべは「泥沼流」と呼ばれ、恐れられた。脂が乗りきった30~40代は永遠のライバル、中原誠16世名人に勝つことに全力を注いだ。特に名人戦では、6度目の対決(挑戦は7度目)となった93年、ついに難敵を破った。この時、49歳11カ月。最年長記録で名人位を初獲得し“熟年の星”と注目を浴びた。
03年12月に引退、05年の将棋連盟会長就任後に同連盟を公益法人化させたほか、61年ぶりのプロ棋士編入試験実施を導入し、アマチュアから瀬川晶司四段(現五段)を誕生させた。06年、名人戦の主催をめぐって、朝日新聞社か、毎日新聞社かで紛糾。解決の糸口が見えない中、「共催」という誰も思いつかない「一手」をひねり出し、事態を収拾した。今年1月には最強の将棋ソフト「ボンクラーズ」と対局。接戦となったが、中盤のミスで敗れた。
自身のホームページ「米長邦雄の家」には最近、“遺言”とも思える内容が増えており、11月下旬には「最後の時」と題し「人生は必ずいつか終わるもの。どのような形で投了するのか、あるいは投了させられるのか。最近はそんなことを考えるのが多いのも又事実です」などとつづっていた。また、今月2日の「最後の時(2)」では「俗人の生前指示についても書いておきたい。相続、告別式の手配等です」とするなど、死期を悟っていたようだった。
 
米長 邦雄 (よねなが・くにお)
1943年(昭18)6月10日、山梨県生まれ。6歳で佐瀬勇次名誉九段門下に。73年の第22期棋聖戦で初タイトル。84年には四冠王に。85年に永世棋聖の称号を受けた。「最優秀棋士賞」を3度受賞。通算成績は1904戦で1103勝800敗、持将棋1。勝率・580。タイトル獲得数は歴代5位の計19期。著書に「宮本武蔵の次の一手」など。
 
むかし米長さんが書いた
『人間における勝負の研究』
『人生 一手の違い』 
という本を読んだ
とてもよい本だった  (T_T)
 

 ——————————————————————

 ダンディーさと奔放な言動で知られる日本将棋連盟会長の米長邦雄さんが18日朝、前立腺がんのため東京都新宿区内の病院で逝去した。69歳だっ た。棋士として、同会長として米長さんほど将棋界に多大な影響を与えた人はいないだろう。一方で、自由奔放に棋士人生を駆け抜け、問題児であり続けた米長 さんのもう一つの野望は、“死ぬまでに1000人斬り”だった。
米長さんは中学1年で佐瀬勇次名誉九段に入門。1963年に19歳でプロ入りし、73年に「棋聖」のタイトルを奪取。85年に通算5期となり「永 世棋聖」の称号を獲得した。93年には史上最年長の49歳11か月で「名人」に。通算の獲得タイトルは19期で、2003年に現役を引退、05年から日本 将棋連盟会長を務めていた。
多くの名誉を手にした米長さんだが、品行方正という言葉は似合わない人物だった。
昨年、始めたツイッターで「うんこなう。快心の作です。直径2センチで長さ80センチが1本にゅーっ。幸せです」と書き込んだのは有名な話。
そして、何より女性が大好きだった。女流棋士や将棋専門誌ライターなど身近な女性から女優まで手広く交際していたという。
弟弟子の西村一義氏は「とにかくモテた。女性が喜ぶことをよく研究していた。褒め上手で口説き上手。女性問題がありながらも奥さんにもサービスを欠かさずよく一緒に旅行に行っていた」と語る。
ただ、あまりに「あなたは美しい」など所構わず口説きまくるので一時、将棋連盟の中でセクハラ問題に発展したこともあったという。
米長さんといえば“悲願の1000人斬り”だ。出版関係者は「19歳で1000人斬りを決意し、毎日バー通いし、380人までは詳細に日記につけ ていたそう。その後は適当になったが、50歳の時の愛人に『キミが583人目の女だよ』と言ったのは、十数年前の雑誌で騒がれました。結局、750人くら いまではいったそうです。どっかのインタビューで、若いころに戻れたら何をしたいという質問に『もっと早く1000人斬りを始めればよかった』と答えてま した」と語る。
志半ばの65歳で前立腺がんに侵された。しかし、治療後は自らのブログで「セックスできました」と報告していた。
また、ギャンブルも大好きだった。前出の西村氏は「将棋のほかにも囲碁、マージャン、ゴルフ、株、競馬と何でもやった。競輪で大負けしたときは 『有り金全部すっちゃって、梅干しをつるしてそれを見てご飯食べたんだ』と言っていたね。奥さんはだいぶ我慢したでしょうね」と明かす。
棋界から多くの追悼コメントが出ているが、人間性を褒めるものはあまり見当たらない。しかし、女とギャンブル好きな公私ともに華のある棋士で、30歳ごろから引退するまで常に人気はナンバーワンだったことは間違いない。
 
男は かくありたい (^_^;)
 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*