纒向(まきむく)遺跡で新たな出土

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 

現地説明会 2月3日 午前10時~午後3時

フォーラム「纒向出現」 2月10日 東京・よみうりホール 
20130202-188472-1-L

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、 大規模な施設の外周を巡っていたとみられる4世紀中頃の溝が東西45メートル、南北7・5メートルにわたって出土し、市纒向学研究センターが1日、発表し た。
邪馬台国の時代から約1世紀後の遺構で、専門家は、この地で成立したとされる大和王権の中枢部だった可能性を指摘している。
見つかった溝は幅4・7~5・8メートル、深さ20~60センチで南西の角にあたる。これまでの調査では、南東の角が出土しており、東西の長さは57メートルと確定。南北は地形などから、54メートル以上あるとみられる。
溝の内側では、同時期の建物跡などは確認されていないが、祭祀(さいし)用の刀形木製品(長さ31・5センチ)などが出土。
重要な祭祀場か、有力者の居館だった可能性も考えられるという。
 
20130202-188173-1-L

▲大規模な施設の周りに巡らされていたとみられる溝

(白線が溝の南西角にあたる)(奈良県桜井市の纒向遺跡で)

 
付近では、邪馬台国の宮殿との説もある3世紀前半~中頃の大型建物跡が出土しており、白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「時代は離れているが、王権が継続して利用していた場所ではないか」と話している。
ただ、邪馬台国時代以降、この周辺で誕生したとされる大和王権は、どこに宮殿があったのかなど、実態はわかっていない。
「日本書紀」には垂仁(すいにん)天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、垂仁天皇の子で日本武尊(やまとたけるのみこと)の父にあたる景行(けいこう)天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」という宮殿が登場しており、関連が注目される。
石野博信・兵庫県立考古博物館長の話「溝の規模から内側は特別な空間で、聖なる儀式が営まれていたとも考えられる。大和王権の宮殿との関係が、明らかになることを期待したい」
現地説明会は3日午前10時~午後3時。雨天中止。JR巻向駅の近く。
10日には午前10時から、東京・よみうりホールで開かれるフォーラム「纒向出現」(読売新聞社後援)でも調査成果を報告する。
 
「纒向(まきむく)出現―纒向に卑弥呼がいたなら―」
をテーマに2月10日(日)午前10時~午後4時、東京都千代田区有楽町のよみうりホール(JR有 楽町駅下車)で開催。邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向遺跡を総合的に調査・研究する同センターが2012年4月に設立されたことを記念するイベ ントの一つ。
 遺跡調査の基調報告に続き、赤塚次郎・愛知県埋蔵文化財センター副センター長、広瀬和雄・国立歴史民俗博物館教授が講演。
さらに寺沢薫所長を司会に、俳優で考古学研究者の苅谷俊介氏ら4人が討論します。
 
古代史は巨大なミステリー空間!
考古学の発見で ときどき書き換えられます
なかなか飽きません ハマります (^_^;)
 
邪馬台国の最有力地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、東西に真っすぐ並んでいたと想定された3世紀前半の建物群のうち、西端の1棟 が存在しない可能性が高いことが発掘調査でわかった。
1日に発表した桜井市教委によると、建物に合う柱穴の列はなく、より広い範囲に大量の柱穴が見つかっ た。
西端の建物は女王卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の宮殿に関連する施設ともされていた。市教委は「想定と異なる形の建物が建てられていた可能性がある」としている。
昨年11月からの調査で、約180平方メートルの範囲から直径約10〜60センチの柱穴が約80個見つかった。うち数十個は3世紀前半のものという。
これまでの調査では、宮殿ともされる大型建物を東端に、計4棟の建物が東西の直線を軸に南北対称に建てられていたと想定された。西端の建物は、柱穴5個の柱列を北側部分とし、東西約5メートル、南北約8.3メートルの大きさと考えられていた。
しかし、今回の調査で建物の南側の柱穴が見つからず、想定していた形と異なることが明らかになった。
兵庫県立考古博物館の石野博信館長は「考えられていた建物は無かったが、小さいけれども大事な建物を何度も建てた神聖な空間であった可能性がある」としている。
現地説明会は3日午前10時から午後3時まで。雨天中止。場所はJR巻向駅より徒歩約5分。
20130202k0000m040106000p_size5

▲多数見つかった柱穴。過去に見つかった柱列は手前にある

2013年1月31日午前11時5分撮影

 
「女王卑弥呼の宮殿」があったとも言われる奈良県桜井市の纒向遺跡で、東西方向に4棟が一直線に並ぶと考えられていた建物群(3世紀前半)のうち、西端の1棟が想定の場所に存在しなかったことが発掘で分かり、同市纒向学研究センターが1日、発表した。
1978年に部分的に行われた調査で、この1棟の一部とみられる柱穴が見つかり、卑弥呼の宮殿の付属施設とも考えられていたが、“幻”と判明した。
残り3棟は、2009年の調査で大部分の柱穴を発見し、柵で囲まれた空間の中に整然と並んでいたことを確認。同センターは「遺跡の価値や評価に大きな影響を与える結果ではない」としている。

4105_1 ▲想定していた建物跡が見つからなかった纒向遺跡の調査現場

=1月31日、奈良県桜井市

 

見つからなかったことに 重大な意味があります (^_^;)

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*