訃報 市川団十郎

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市川団十郎(いちかわ・だんじゅうろう、本名堀越夏雄=ほりこし・なつお)さんが2月3日21時59分、肺炎のため東京の虎ノ門病院で死去した。
66歳だった。
葬儀などの日程は未定。
おおらかな芸風と華のある風姿で「勧進帳」の弁慶役など歌舞伎十八番の豪快な荒事(あらごと)を得意にした歌舞伎俳優。
2004年5月、歌舞伎座(東京)で十一代目海老蔵襲名披露興行中に、急性前骨髄球性白血病とわかり入院。
 

10月には海老蔵襲名パリ公演で復帰したが、翌年再発し、06年には10カ月ぶりに舞台に立った。昨年12月の京都・南座公演中に体調不良を訴え休演し、肺炎の疑いで治療を続けていた。
東京都出身。戦後歌舞伎の華だった十一代目団十郎の長男として生まれ、53年に7歳で初舞台。
58年に六代目市川新之助を襲名し、同世代の尾上菊之助(現菊五郎)や辰之助(87年死去)と共に「三之助ブーム」を巻き起こした。
69年に十代目市川海老蔵を、85年に十二代目団十郎を襲名した。
 
01◆市川団十郎(いちかわ・だんじゅうろう)
本名・堀越夏雄。
1946年(昭21)8月6日、東京生まれ。
日大芸術学部卒業。53年に市川夏雄を名乗り初舞台。
58年に6代目市川新之助を襲名。
69年に10代目市川海老蔵襲名。
85年に「勧進帳」弁慶、「助六」助六ほかで12代目市川団十郎を襲名した。
04年に白血病を発症。
05年にも再発、08年には妹から骨髄移植を受けた。
07年に紫綬褒章受章。
屋号は成田屋。息子は市川海老蔵、いとこに松本幸四郎、中村吉右衛門がいる。

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images弁慶や助六などの風格ある大きな舞台ぶりで歌舞伎界を代表する立ち役として活躍してきた十二代目市川団十郎(いちかわ・だんじゅうろう、本名・堀越夏雄=ほりこし・なつお)さんが3日午後9時59分、肺炎のため東京都港区の病院で死去した。66歳。
歌舞伎座に出演中の04年5月9日に体調不良を訴えて入院。「急性前骨髄球性白血病」と診断された。08年には骨髄移植を受けるなど闘病しながら舞台を続けていた。
東 京生まれ。江戸歌舞伎の名門、市川宗家十一代目団十郎の長男。1953年に市川夏雄を名乗って初舞台 を踏み、58年に六代目市川新之助を襲名した。60年代には「寺子屋」の松王丸、「御所五郎蔵(ごしょのごろぞう)」の五郎蔵など当たり役を演じ、同世代 の尾上菊之助(現・菊五郎)さん、初代尾上辰之助(三代目松緑)さんと合わせて「三之助」と呼ばれた。
69年に十代目海老蔵を襲名。同年 に日本大学芸術学部演劇科を卒業。東京・新橋演舞場で坂東玉三郎さ ん、片岡孝夫(現・仁左衛門)さんらと毎年のように公演を行い、海老蔵、玉三郎の顔合わせは「海老玉コンビ」と言われて人気を呼んだ。85年、十二代目団 十郎を襲名した。初の米国での襲名公演も行った。
市川宗家の「家の芸」である「歌舞伎十八番物」の「勧進帳」の弁慶や「助六」、時代物で は「仮名手本忠 臣蔵」の由良之助、世話物では「四谷怪談」の伊右衛門、「河内山(こうちやま)」などの当たり役を磨いた。新作の創作にも取り組み、「成田山分身不動(な りたさんふんじんふどう)」(92年)などを自主公演した。
88年度日本芸術院賞、98年度芸術祭賞優秀賞を受賞。日本芸術院会員。著書に「歌舞伎十八番」がある。

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おおらかで品格ある芸風に、口ほどにものを言う大きな目。66歳で3日亡くなった、十二代目市川団十郎さんは市川宗家の「家の芸」である荒事(荒々しく豪快な演技)にふさわしい立ち役俳優だった。
 ◇「江戸の美」継承途上で
 団十郎は初代以来、江戸歌舞伎をリードしてきたが、明治の名優、九代目の死と同時に直系は絶えた。昭和に入り、芸脈を養子として継承したのが十二代目の父、十一代目だったが、人気の盛りに病没。長男の十二代目は、19歳の若さで市川宗家を双肩に担った。
 十二代目は23歳で十代目海老蔵を襲名、85年に38歳で大名跡、団十郎を襲名した。有名な「歌舞伎十八番」も団十郎家の代々が得意としてきた「家の芸」である。
 襲名時には「名前の重圧に負けず、新しい団十郎を作るつもりで歩んでいきたい。市川家の芸である荒事、歌舞伎十八番を自分のものにしたい。『勧進帳』の弁慶は団十郎のものだといわれた時、真の団十郎になれるのだと思います」と語った。「初代から父まで団十郎は時代のシンボルだった。これまでに築きあげられた江戸歌舞伎の美、様式を受け継ぎ、次の世代に渡すことが私の仕事」との発言にも決意と誇りがうかがえた。
 

 
images 「助六」の助六、「暫(しばらく)」の鎌倉権五郎、「鳴神」の鳴神上人、「毛抜(けぬき)」の粂寺弾正(くめでら・だんじょう)など、超人的な人物が活躍する十八番物の多くが、その当たり役となった。
 襲名以降の団十郎さんは、決意通りの道を歩んだ。92年には元禄歌舞伎の復興を目指し、初代原作の「成田山分身不動」を、演出に加わり、復活上演。98年には「平成の義太夫狂言」として「鶴賀松千歳泰平~上意討ち」を演出。02年に十八番の全作品を考察した著書「歌舞伎十八番」を出版した。
 おうようで真っすぐな性格で、誰にも信頼された。舞台ぶりにも人柄が表れ、若いころは「未完の大器」と呼ばれたが、いつの間にか「未完」の冠は消えた。歌舞伎界のリーダーとしての期待がますます高まる中での早すぎた死は惜しんでもあまりある。
 ◇早すぎる死、衝撃…勘三郎さんに続き
 12年12月、中村勘三郎さんが亡くなったばかりの歌舞伎界。悲しみが癒えぬ中での人気俳優の訃報に、衝撃は大きい。
 本拠地・歌舞伎座は老朽化による建て替えが進み、新・歌舞伎座は4月に開場を控えている。団十郎さんは4月から6月まで、3カ月連続での出演が予定され、6月には極め付きの「助六」を演じることが発表されていた。
 団十郎さんは、長男、海老蔵(前名・新之助)さんの「十一代目市川海老蔵襲名披露 五月大歌舞伎」で歌舞伎座に出演中の04年5月9日、体調不良を訴えて入院。「急性前骨髄球性白血病」と診断された。以後、08年には実妹から骨髄移植を受けるなど、病と闘いながら舞台活動を続けていた。
 10年4月の「歌舞伎座さよなら公演」では、団十郎さんの「助六」が最後を飾った。病気を克服し、当たり役で舞台に立つ姿が胸を打った。12年12月18日、体調不良で出演中の京都・南座での顔見世興行を休演。療養が伝えられていたが、容体が急変したという。
 

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2013020400004_2歌舞伎役者の市川団十郎さん(66)が、2月3日の夜、肺炎で亡くなりました。
朝日新聞で今も続く長期連載「患者を生きる」の担当だった2007年。
2度目の「がん」シリーズのトップ、そして新年最初の紙面に、ぜひ歌舞伎俳優の団十郎さんにお願いしたい、と稽古場のあるご自宅でお話をお伺いしました。 
白血病の発症や再発、そして「無間地獄」と形容した「自家末梢(まっしょう)血幹細胞移植」の副作用。そんな過酷な経験を語りながらも、終始微笑みをたたえた表情で、どこかひょうひょうとした語り口だったことが、意外でした。
「自分の体に何が起こってるか知りたい」と、病気について学んだだけあって、医学用語を交えて説明してくださったのです。
そして、同連載が2000回を迎えた昨年10月、再びご登場いただきました。
主に、最初の取材時はまだ公表していなかった、骨髄異形成症候群の症状と造血幹細胞移植についてお聞きしました。
「治療のフルコースを経験したんですよ。血液型もA型からO型になって」
放射線治療の様子などは、ユーモアも交えて、前回よりもよりリラックスされていたのか、にこやかにお話しされた様子が思い出されます。
舞台にかける情熱、後進への思い、病を得てより感じるようになったという宇宙とのつながりなどを語るときに輝いていた大きな目も、印象に残っています。
「寿命はさだめですからね」とおっしゃっていましたが、
同時に、「せっかくいただいたおまけのような命。有効活用させてもらおうと思います」と、これからの目標として、「日本の文化を底上げしたい」と、子ども歌舞伎の話もされていました。
残念でなりません。
謹んで、哀悼の意を表します。
 

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ph02昨年9月、連載「患者を生きる」で記者が取材したとき、市川団十郎さんは自身の闘病生活について、医学用語を交え、淡々とどこかひとごとのように説明してくれた。
 自分の身に何が起こっているのか熱心に勉強して理解したが、それは死への恐怖からというよりも、純粋な好奇心から、という印象だった。いつか話は大好きな宇宙の話へつながっていった。
 闘病中も舞台への情熱は変わらず、主治医から、「死ぬかもしれない」という厳しい見通しの話をされた後に、すぐに復帰の舞台について相談したという。
 「頂いた命だから、残りは歌舞伎に、特に、後進のために燃やしたい」。そう語っていた。市川宗家や歌舞伎界だけでなく、地域で子どもたちに歌舞伎を教えたことについて、特に楽しそうに説明してくれた。
 

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 3日死去した歌舞伎俳優の市川団十郎さんの東京都内の自宅には、4日未明から歌舞伎俳優や関係者、劇場関係者らが続々と弔問に訪れた。
 長年にわたって舞台で共演し、盟友関係にある歌舞伎俳優の尾上菊五郎さん(70)は「にっこり笑っているようだった。60年以上の友達なので、言葉が見つかりません。舞台では相手役、かたき役、兄弟分、いろいろなことをやった。つらいですね」と話した。 
 

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「歌舞伎座見せたかった」松竹会長、勘三郎さん、団十郎さんを悼む
 松竹の大谷信義会長は5日、札幌市で記者会見し、歌舞伎俳優の中村勘三郎さんと市川団十郎さんが相次いで亡くなったことに触れ「ご本人たちも(新しい歌舞伎座の開場を)楽しみにしていたと思う。せめてご覧いただきたかった。残念で仕方がない」と悼んだ。
 4月2日からのこけら落とし公演については「われわれとしては、頑張って良い舞台をつくっていきたい」と語った。
 大谷会長は、この日始まったさっぽろ雪まつりで、新しい歌舞伎座の雪像が披露されるのに合わせ、札幌市を訪れた。
 

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s1347100879歴代団十郎(だんじゅうろう)は「目玉の役者」という。怪力の武人や鬼神が大暴れをして江戸っ子を熱狂させた初代以来の「荒事(あらごと)」では、目を 見開いてのにらみはその超人的力を表す所作(しょさ)だった。やがて団十郎その人のにらみに魔を払う力があると思われた
「吉例にまかせ、一つにらんでお 目にかけます」。こう述べてキッとにらむのは、江戸時代には正月の仕初式(しぞめしき)で団十郎だけに許されていた所作だったという。今もにらんでもらえ ば風邪にかからぬというまなざしの呪力だ
▲そんなオーラを帯びた大名跡(みょうせき)である。襲名(しゅうめい)にあたって十二代目市川団十郎さんが悩ん だのも無理はない。だがある日「団十郎を継げば文句を言われるだろう。でも言われないより言われた方がいい」、そう思うとスッと悩みのトンネルを抜け、運 命を受け入れられた
▲初代が人気を得た元禄時代、七代目が活躍した文化・文政時代は歌舞伎の黄金時代とされる。そして20年ぶりの大名跡復活となった十二 代目の襲名も、今日にいたる歌舞伎の空前の盛り上がりをもたらすことになる。いつの世も歌舞伎人気の核をなす団十郎の存在だ
▲その後の年をおっての芸の円 熟、病魔との壮絶な闘い、歌舞伎十八番の埋もれていた演目復活など歌舞伎ブームを先導した場面の一つ一つを思い出す方もいよう。「いい器にはいい酒を」と 語っていた新しい歌舞伎座の舞台を踏まずに世を去った無念はいかばかりか
▲大きな目でのにらみをパリのオペラ座でも披露したという団十郎さんである。その まなざしの呪力を、ひたすら観客を魅了し、次代に歌舞伎の隆盛を手渡すことに使い切った十二代目の生涯だった。
写真は海老蔵の「にらみ」

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菅官房長官、團十郎さんたたえ「あまりにも早い」
 菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、歌舞伎俳優、市川團十郎さんの死去について「日本の伝統芸能の魅力を世界に伝えてきた大功労者だ。あまりにも早い逝去で本当に残念」と悼んだ。
 海外公演を積極的に展開したことにも触れ「歌舞伎界の柱として大変活躍された」と、業績をたたえた。
 

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   勧進帳など歌舞伎十八番の豪快な荒事を得意とした歌舞伎俳優の市川団十郎さん(66)が、きのう3日午後9時59分に死去した。
2004年5月に急性前骨髄球性白血病と診断され、2年後に舞台に復帰したが、昨年暮れ(2012年)に体調不良を訴え入院していた。
「血液全部入れ替えるぐらいの治療でも弱音を吐かなかった」
   東京・目黒にある団十郎邸前からみといせい子リポーター伝える。「団十郎さんは息子の海老蔵さんなど、家族に看取られお亡くなりになりました。中村時蔵さんは『回復に向かっていたのに、急変したようだ』と話していらっしゃいました」
肺炎といっても…
   司会の羽鳥慎一「肺炎で入院されて快方に向かっていると聞いていましたから、この知らせを聞いたときにはビックリしました」
   コメンテーターの石原良純(タレント・気象予報士)「僕たちはいままで肺炎は治る病気と思っていたけど、66歳というのはちょっと早すぎるというか…」
   ゲストの歌舞伎研究家・喜熨斗勝氏が団十郎について語った。
「自分は団十郎だという驕ったところは少しもなく、常に謙虚な人でした。若手の育成に努め、フランスでは歌舞伎の公演を成功させるなどいろいろなことに挑戦した人でした。体中の血液を全部入れ替えるぐらいの治療を受けたと聞いています。大変な思いをしたと思いますが、それでも弱音を吐かなかった」
   再び市川邸の前からの中継に切り替わり、海老蔵が団十郎の最後を語った。
「ホッとした表情を見せ、息を引き取りました。免疫力が下がっていたので、感染症に罹る危険や白血病もまた少し出て来たので、眠りながら治療をするという治療法を続けていました」
   昨秋(2012年)の中村勘三郎に続いて、大物俳優の死去となった。
 

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index歌舞伎俳優の市川團十郎さんが亡くなったことについて、歌舞伎に詳しく團十郎さんとも長年親交があったNHKの元アナウンサーの山川静夫さんは

「團十郎さ んは天体観測が趣味で星空をよく眺めていたが、人柄も演技も宇宙のようにスケールの大きな人だった。

助六や勧進帳などの荒事では、誰にも負けないという闘 志を持って家の芸を守ってきた。

一方で、弁慶の演技では、強さだけでなく義経を思う優しい心を感じさせるなど、誠実な人柄がすべての芸に表れていた。

勘三 郎さんに続いて、團十郎さんという歌舞伎界の2枚看板が相次いで亡くなってしまったことは残念で悔しい」

と話していました。

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t_TKY2013020500493日夜、肺炎のため66歳で亡くなった歌舞伎俳優の市川団十郎さんは2011年から全国骨髄バンク推進連絡協議会長として患者の支援活動に励んでいた。
自身が出演する公演には、白血病患者や家族を無料で招待していた。
 30代で急性骨髄性白血病を発病し、骨髄移植を受けた東京都杉並区の奥谷麻子さん(50)は10年、団十郎さんに招待され、母親と歌舞伎を鑑賞した。
「場内に響き渡る力強い声と鬼気迫る表情の演技に、とても大病をされたとは思えないと、感激しました」
 公演後には楽屋にも招待された。
長時間の公演後にもかかわらず、疲れた顔一つ見せず、にこにこした笑顔で対応してくれたことが印象に残っているという。
【写真】白血病患者らを前に自らの病気の経験を語る市川団十郎さん=2009年12月、福岡市中央区
 

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enn1302051147008-p1歌舞伎俳優の十二代目市川團十郎さん(66)が亡くなった翌4日、約1年3カ月ぶりに大塚範一キャスター(64)が、フジテレビ系「めざましテレビ」に生出演し、4月からレギュラー番組で本格復帰することを発表した。
急性白血病と闘ってきた60代の2人。生死の分かれ目となったのは何だったのか。
 2004年に急性白血病を患い、08年には骨髄移植を受けた團十郎さん。
再発の心配はないと思われたが、昨年10月に新橋演舞場で演じた「勧進帳」の弁慶を見た演劇記者は「体のキレがないのが気になった。飛び六方の引っ込みもつらそうで、息が上がっていた。最初に白血病を発症したときも弁慶を務めていたが、そのときと似ていた」という。
責任感から無理を重ねてきたのか。
 白血病は、がん化する細胞によってさまざまな種類がある。最初は無自覚のことが多い慢性白血病については、がんを狙い撃ちにする分子標的薬の登場で、完全に治る人も多くなった。
 一方、急性白血病では今も抗がん剤による治療が一般的で、團十郎さんや大塚さんは、がんとの長い闘いを強いられた。
血液のがんの最先端治療と研究を行うがん・感染症センター都立駒込病院の坂巻壽院長が説明する。
 「慢性白血病と急性白血病は別の病気と考えてください。急性白血病に効く分子標的薬はまだなく、化学療法が中心になります。患者さんの状態によって治療効果には差があり、治ったように見えても再発のリスクはある。再発しやすいタイプかどうかは、検査によってある程度わかります」
 急性白血病で再発した場合は、血液の製造工場を丸ごと変えてしまうイメージの「骨髄移植」が治療の選択肢となる。團十郎さんも妹から提供を受け手術は無事成功。しかし、この治療は後に肺炎というリスクが潜んでいた。
 「移植特有の合併症が起こることがあります。体内に入ったドナーの白血球が、患者さんの身体を攻撃し続け、特異的な肺炎を引き起こす。あるいは、白血球の攻撃を抑えるために免疫抑制剤を投与することで、感染症にかかりやすくなるのです。一般的に免疫のコントロールは難しく、治療後に合併症で亡くなる方はいます」(坂巻院長)
 團十郎さんのように舞台続きで、体力の低下も加わると、さらに肺炎のリスクは高まるという。
 一方、大塚キャスターもテレビを通じた復帰あいさつで「再発の恐れはあります」と神妙な表情になる場面があった。
 團十郎さんのような骨髄移植が、すべてに有効とも限らないそうだ。
 「骨髄移植そのものの治療も、身体に大きな負担を与えます。60代を超えた場合は、適用が難しいと思います」と坂巻院長。大塚さんには、ストレスや過労など免疫力の低下を避け、新たな番組で「無理をしないお手本」としてマイペースで現場復帰を果たしてほしいものだ。
 坂巻院長が、こう繰り返す。
 「慢性白血病は、健診の血液検査のわずかな異常で発見されるケースが増えています。毎年の健診が予防の一助となります。急性白血病は急激に症状が出ますので、人間ドックでは見つかりにくいのですが、症状が出た早い段階で専門の医療機関を受診してください」
 

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index2  「勧進帳」の弁慶など歌舞伎十八番の豪快な荒事で知られた市川團十郎さんがきのう3日(2013年2月)夜、肺炎のため亡くなった。66歳。
11代目團十郎の長男に生まれ、7歳で初舞台を分だ。11歳で市川新之助、23歳で市川海老蔵、38歳の若さで12代目市川團十郎を襲名した。
   しかし、2004年の長男・海老蔵の襲名公演中に急性前骨髄球性白血病で入院した。この時は5か月で復帰し、その年の10月には海老蔵とともにパリ公演を成功させたが、翌年に再び休演し、06年に復帰した時は「『無限地獄』から戻ってきたという感じ。今度の療法は厳しかった。でも、舞台に復帰できるのは無上の喜びです。ベッドの上で考えることはお芝居のことしかない」と語った。
   07年にはパリ・オペラ座で歌舞伎公演、紫綬褒章も受賞して「今年はツイてる年」。08年には妹から骨髄移植を受け血液型がA型からO型に変わった。その後も精力的に舞台を勤めたが、去年12月の京都・南座での「顔見世興行」を体調不良で途中休演し、これが最後の舞台となった。
息子・海老蔵の殴打事件では張り込み報道陣に「ホットワインと鳩サブレ」
   歌舞伎評論家の犬丸治氏は「残念としかいいようがない。歌舞伎の中の鎮守の森ですから」という。井上貴博アナが「どんなときでも取材に答える。歌舞伎界の長嶋茂雄なんて書いた新聞があった」
今ごろ二人一緒
   司会のみのもんた「エッ、どういうこと?」
   小松成美(ノンフィクションライター)「自分は團十郎だけれども、歌舞伎界をまとめていく責任があると海老蔵事件のときも答えていましたね」
   みの「あの答え方が印象的でした」
   海老蔵は10年に結婚したが、六本木で殴られ入院するという事件を起こした。このとき父親として実に立派だった。夜中に張っている記者たちにホットワインと鳩サブレを差し入れたりもした。犬丸氏は「決してうまい役者じゃなかったが、立派な役者だった。うまいのはいくらでもいるが、立派な役者は少ない」という。みのが「どういうことですか」と聞くと、「そこにいれば安心だ。舞台が引き締まる。伝統と人格は別なんです」お犬丸氏は説明した。
中村勘三郎に夜中押しかけられパジャマ姿で芝居談義
   小松は團十郎に長いインタビューをしていた。「荒事は自然との対峙なんですといっていました。たえず自然に目を向けていて、スペースシャトルに乗せた扇をデザインしたり、『宇宙で歌舞伎をやりたい』なんてこともおっしゃってました」。勘三郎から聞いたという話もした。若いころに芝居で議論になって、勘三郎が夜中にまた訪ねたのをパジャマ姿で聞いてくれたことがあったそうだ。2人とももういない。
   みの「今ごろ行ってるかもしれない」
   勘三郎もそうだったが、ことし4月の新歌舞伎座のこけら落としはひとつの目標だった。
その前の3月には、海老蔵と「オセロ」をやる気でもいた。これを海老蔵が引き継ぐことができるか。これも楽しみではある。
 

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 市川海老蔵    酒さえ飲まなきゃ 紳士なんだが・・・ (^_^;)

 
images西麻布事件で有名になった十一代目市川海老蔵さんは長男。
 
いまやスカイツリーより有名な東京の新名所になっている(?)のが、西麻布にある14階建ての雑居ビル「バルビゾンビル27」。
11月25日に11階の「M」というバーで市川海老蔵(33)が殴られて大ケガを負ったことから、現場を訪れる“観光客”が増えているという。
入居している店の従業員はこう話している。
「血痕があった非常階段を携帯のカメラで撮っていく人たちをよく見かけますよ」
このビルは、もともとはオフィスとして利用する企業が集まっていたが、十数年前、9階に「R」という店がはいったのをきっかけに、雰囲気が一変したという。店の元従業員は証言する。
「Rは雑誌などにも取り上げられて一躍有名になり、いまや14階と8階にも店を出す人気店。プライバシーの保護に気を使っていて、8階は完全個室になっています。そのRに引かれるように、“一見さんお断り”の完全紹介制やVIPルームを設ける店が増えていったんです」
例 えば、海老蔵もあの日、立ち寄った6階のダーツバー「F」は指紋認証制で、エレベーターを降りたところに指紋認証と暗証番号を押す機械があり、登録した会 員でなければ扉を開けて中にはいることができない。このようなシステムに加えて、店同士の連携の良さも芸能人が訪れるようになった理由のひとつだという。
「自分の店が満席だったら、他階の店を紹介するなど、店同士で融通しあっていて、ビル全体でひとつの店という感じ。お互いにプライバシー保護を重視し、従業員に箝口令を敷いていて口も堅い。それで芸能人の常連客が増えていったんです」(店の元従業員)
 

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 東京都目黒区の市川団十郎さんの自宅には4日未明から、坂東三津五郎さんや市川染五郎さん、尾上菊五郎さんら俳優仲間が弔問に訪れた。
団十郎さんの遺体は1階に安置された。
約100人の報道陣が詰めかけたが、周辺はひっそりと静まり返っていた。
 同日午前8時半過ぎ、長男の市川海老蔵さんが喪服姿で現れ取材に応じた。
 海老蔵さんは
「僕はやんちゃでわがままばかりだったけれど、それを大きな愛と器で見守ってくれた。いつも家族のこと、歌舞伎界のことを考えて、体がつらくても弱音を吐かなかった。ありがとうと言いたいです」
と父親を悼んだ。
 団十郎さんは04年に「急性前骨髄球性白血病」を発症して以来、闘病を続けてきたが、先月半ばに容体が悪化。海老蔵さんら家族が、病院で最期をみとったという。
 近く第2子が生まれる予定の海老蔵さんは
「思い当たる言葉のすべてをかけた。親孝行ができなかったけれど、これからは歌舞伎に精進を重ねていきたい」
と時折、声を詰まらせながら語った。
 

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團十郎さんの長男、市川海老蔵は4日午前、都内にある團十郎さんの自宅前で会見。「決して弱音を吐かなかった」という壮絶な闘病生活や、“最後の面会”となったテレビ電話での会話の様子を明らかにした。
 「大きな愛のある人でした」などと目を潤ませた海老蔵。「それこそ、昨日の私の(成田山新勝寺で行われた)豆まきの頃には元気でした。突然でしたね」と、團十郎さんの容体が急変したと語った。
 團十郎さんは昨年末、免疫力の低下により、肺炎だけでなく感染症を併発し、白血病も再発の兆候があったという。肺炎の悪化を受け、眠ったまま全身に酸素を回す集中治療を選択。その治療開始前の1月19日、仕事で多忙な海老蔵はテレビ電話で父と“面会”した。
 「そのとき父はもうしゃべれなくて。家族の話だと、苦しい状況でも、僕とテレビ電話でつながって『珍しく笑顔だった』と。それが意識がある中では最後でした」
 来月に妻、小林麻央(30)が出産予定の第2子について、「一番父が喜んでいた」と振り返る。
 「次は男の子なので、一緒に舞台に出たかったでしょうし、抱きたかったでしょうし…。父は残念だったと思います。家族が言うには『今までになく喜んでいた』と」
 海老蔵は暴行事件に巻き込まれるなど、團十郎さんに迷惑をかける場面もあった。
 「僕はやんちゃですし、わがままですし、わんぱくな部分が多いので、そういったものも、父は大きな愛というか器で、見守ってくれる何かをもっていた。大きな愛のある人でした」
 「僕は本名が孝俊(たかとし)で親孝行の『孝』の字が付いているんですが、全然孝行できなかった。少しでも歌舞伎で精進して、草葉の陰から見ていてくれればそのときに孝行ができます」
 海老蔵にとってはこれからが親孝行の日々となる。
 

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 「光を与えてくれた」/海老蔵一問一答

 
 12代目市川団十郎さんの長男市川海老蔵(35)が4日午前、都内にある団十郎さん(享年66)の自宅を弔問に訪れた。団十郎さんは3日に、肺炎のため亡くなった。
 -父を見送ることはできましたか
 海老蔵 できました。
 -最後の様子は
 海老蔵 いつも妹が看病していました。昨日は地方で仕事をしていて、その帰りを待って…。闘病生活が大変でした。ホッとした表情です。
 -家族そろって
 海老蔵 みんなそろって見守りました。おかげさまで。
 -風邪と聞いていましたが
 海老蔵 当初は肺炎。大きな病気を2回ほど患っているので、その所も引っかかって、免疫力も下がっていたので感染症に弱い状況となっていて、肺炎の状況や白血病の状況があって、最終的にはそういった物が重なってしまった。昨日の豆まきのころは元気でした。
 -最後の会話は
 海老蔵 1月19日から肺炎の状況が良くなく、眠りながらの治療、集中的な治療を選択していました。順調でしたが、突然だった。家族も驚いていました。舞台をしていたので、何回かしか病院には行けず、最後はテレビ電話で話をしました。
 -会話の内容は
 海老蔵 そのときは父は話せない状況でしたが、珍しく笑顔でした。それが意識のある最後の会話だった。
 -2人目の子供は見せることができなかった
 海老蔵 次は男の子で、一番父が喜んでいました。一緒に舞台も出たかっただろうし、抱きたかっただろう。回復に向かっていたので家族としては言いようがない。また歌舞伎界にとってもとても大きなことがまた起きてしまった。
 -2人目が男の子と分かったときはどんな様子でしたか
 海老蔵 とても喜んでいた。家族の話によると、今までにないくらい喜んでいました。
 -海老蔵さんにとってどんな父親でしたか
 海老蔵 僕はやんちゃでわがままで、わんぱくな部分も強いのに、大きな器で見守ってくれる何かを持っていました。愛のある人だった。自分ごとを後にしてでもみんなのことを考えてくれていた。自分自身のことは忘れがちで自分がつらくても決して弱音を1回も吐かなかった。
 -自身がつらくても表に立ってくれてどんな思いか
 海老蔵 父のところで生まれてきて良かった。だからこそ、感謝。
 -父の愛を感じていた
 海老蔵 いつも感じていました。父は父を早くに亡くしているということもあり、その思いは息子には味わわせまいとしていました。
 -2人の子供ができて親孝行できたのでは
 海老蔵 本名に親孝行の「孝」が付いているのに、全然親孝行できなかった。でも、歌舞伎の方で精進している所を見せられれば、どこかで見ていてくれるでしょう。
 -ご自身が父から学んだことは
 海老蔵 自分のことを置いてでも周りのこと…。優しい人でした。本当にみんなに光を与えてくれた。
 -思い出の言葉は
 海老蔵 無口なタイプでしたが、時には細かく説明してくれました。そのことはビデオで残しています。何と言われると…。
 -最後に掛けた言葉は
 海老蔵 この世の全ての言葉を掛けました。
 -どんな表情か
 海老蔵 今は解放された表情。父は笑顔でした。
 -今後は
 海老蔵 父の思いを少しでも受け継がれるように、精進していきたい。自分自身がしっかりしないと。
 
 
bsi1212050748008-p11-150x150海老蔵事件に続いて 大物役者の相次ぐ訃報
新しい歌舞伎座の完成と こけら落としを目前にしながら
このところの歌舞伎界は 呪われているのではなかろうか (T_T)
 
 
 
 
 
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