幕末維新

水戸藩の悲劇的な歴史

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9/21に水道橋の後楽園(球場じゃなくて庭園、ここは旧水戸藩のお屋敷)を歩いて、私の中で水戸藩への関心が高まりました

水戸藩と言うと、水戸黄門(→)とか、幕末の桜田門外の変に登場するくらいのことは知ってたけど、詳しいことはよく知らなかったんだよね

それでネット(主にYouTube)で少し調べたら、とても興味深い藩というのが見えてきた

この「少し調べる」、そして調べたいテーマに大まかな当たりを付けたいとき、いきなり書籍や文献というのは少し大げさで内容も細かすぎるので、YouTubeというのは実に丁度いい情報源だと思います(おまけにタダだしね)

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ただ、YouTubeには大量の動画があって玉石混淆なので、選ぶ目が重要になる

桜田門外の変(→)もそうなんだけど、とにかく水戸藩の歴史は血塗られている

特に幕末のころには、目を覆うような残酷な事件が次から次へと起きている

そしてその背後に独特のイデオロギーがある

それが「大日本史」に代表される水戸学なんだ

今でもガザ戦争とかそうだけど、大量虐殺とか凄惨な事件の背後には、たいてい共産主義(共産教)とかナチズム(これも間違いなく宗教だ)とか、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教とかの一神教的イデオロギーがある

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人間はイデオロギーを排して、デカルト(→)が示したように客観的事実と合理的推論だけを理性的に活用すれば、サイエンス(自然科学)が成し遂げたような偉大な成果を手にすることが出来る

逆にイデオロギーにハマリ込むと、狂気に走って泥沼のような悲惨な状況を招き易い

ただ、イデオロギーには人間に信じられないような活力をもたらす作用があり、イデオロギーで一致団結した集団は無類の強さを発揮するというのも否定しがたい歴史的事実だ

この辺、人間という生き物が不可避的に背負った宿命なのかなぁと思ったりもする

水戸藩とか会津藩のような幕末の悲劇的な藩を見て思うのは、視野の狭さということ

明治維新を推進した薩摩藩とか長州藩には、「運良く」イギリスやフランスと実際に戦火を交える機会があったの

「こりゃ今の状態で攘夷(じょうい、外敵を撃ち払うこと)なんて無理だわ!」

「本気で攘夷をするなら、まず開国して先進国に学び、国力を付けることだ!」

と悟ることが出来た

水戸藩とか会津藩には、地理的な宿命でそのような機会が無く、最後まで

「精神力があれば、夷狄(いてき、外国人)に撃ち勝てる!」

などと信じて突き進んでしまった(視野の狭さだ)

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同じような精神状態になったのが、昭和の最初の20年間

真珠湾攻撃を決定した当時の日本政府首脳には、東条英機をはじめ、米国を自分の目でしっかり見たことのない連中が多かった

ハーバードに留学し、米国の怖さを熟知している山本五十六(←)はその重大な決定から外され、真珠湾攻撃の作戦立案だけを任された

人間は自分の目で見たことのないものには具体的なイメージを脳内に描くことが出来ず、自己中心的で現実離れした判断を下しがちになる(だから、現場を見ることが重要なんだ)

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明治の初め、まだ明治新政府の基盤が固まっていない不安定な時期に、日本政府首脳がそろって欧米を2年間も見て回った(岩倉使節団、→)のは本当に心底スゴいことだと感心する

大久保利通をはじめ、このときの日本政府首脳の強烈なリアリズム(現実主義)には頭が下がる

プライドも理想主義もとりあえず横に置いて、とにかく自分の目で現実(現場)を見て、現実に立脚してものを考え、その上で強い国を建設しようとしてギリギリの覚悟をしている

まさに日本という国が消えて無くなるかもしれないという強烈な危機意識の中で、必死に西欧文明を学び取ろうとした旅だった

昨今の国会議員が税金で楽しんでいる物見遊山の海外視察とは、まるで次元が違う

そうやって当時の日本政府首脳が、西欧文明とか産業革命の具体的イメージを脳内に焼き付けた結果、明治維新のあとの文明開化は、世界が驚くほどの成功を収めることが出来た

その危機意識が薄れて、政府首脳の最大の関心事が「仲間内の人間関係になったとき、真珠湾攻撃という人類史にも残る愚かな決断が下された

国家でも企業でも、首脳陣の関心事が外界(国家なら諸外国の動向、企業なら顧客や競合企業)ではなく、「仲間内の人間関係」になったときに、本当の恐ろしい危機が訪れる

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第二次大戦末期、最前線では武器も食糧も尽き、餓死寸前で戦っていた

そのとき、東京の大本営幹部は毎晩のように赤坂や新橋の料亭で芸者をあげて宴会を開いていた

宴会が好きとか嫌いではなく、宴会に参加しないと「仲間」から外されてしまう恐れがあった

「付き合いの悪い奴」と見られたら、もうオシマイなのだ

当時の大本営幹部にとって、最前線での勝敗よりも、今晩の宴会の方が重大関心事だった

競争のユルい業界や企業には、「5時から課長」とか「宴会部長」みたいな人がいて、仕事はテキトーに片付けて、仲間内の情報交換や上司へのゴマスリに専念している人がいる

そんな人が出世して、本当に外を向いて仕事をしている人が不遇になると、いずれ本当の恐ろしい危機が訪れる

居心地が良くて人間を堕落させるものは色々あるが、「仲良しグループ」もその一つだ

国家や企業の首脳に限らず、もしあなたが何かの重要な判断をしようとしているとき、あなたの頭に浮かんでいるのが仲間の誰かの顔だったら、あなたは間違った判断を下そうとしているのかもしれない

そんな訳で、時々水戸藩についてのYouTube動画を眺めていたら上の動画があった

幕末の水戸藩の全体像と流れの概略を簡潔にまとめている

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私も霊夢と魔理沙のゆっくり動画(→)を作ったりしたことがあるから親しみがわく

後楽園で始まった水戸藩への興味で、次は水戸の弘道館などを見に行こうかなぁなどと考えている

旅をすると歴史への関心が高まり、それがまた次の旅を誘発する

こんな旅と歴史の関係の中で、毎日を過していきたいなぁと思う今日このごろ

(^_^;)

 

閉館 土方歳三資料館

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 元祖ジャニーズ系ですから

  ジャニーズ事務所が買い取って

 継続させたらどうでしょう?

 これとは別に

  日野市立新選組のふるさと歴史館

 というのもあって、こちらは閉館しません

今回「休館」とありますが、再開時期未定の長期休館で、民間(ご子孫)のよる運営ですから、このまま再開せずオシマイという可能性もあります

  (T_T)

 

幕末に活躍した新選組の副長・土方歳三(1835~69年)の遺品などを、土方歳三の生家跡に展示してきた「土方歳三資料館」(日野市)が、10月末で休館する。

土方歳三ゆかりの品を見学できる生家跡として、30年近く全国のファンに親しまれてきた。

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土方歳三の兄の子孫である土方愛館長(50)は

「今後は違った形で土方歳三の息吹を

 感じられる方法を考えていきたい」

と話し、一区切りを付ける決意をした。

土方愛館長は、木造平屋建ての土方歳三の生家で生まれ育った。

蔵で保管していた土方歳三の遺品を見たいと訪ねて来る人が後を絶たず、家の建て替えを機に、一部を資料館として1994年に開設し、遺品や史料を公開してきた。

土方歳三が少年時代、風呂上がりに相撲の張り手のけいこをしていたと言われる生家にあった大黒柱は、資料館入り口の 梁はり として残っている。

詳細はここをクリック

 

断髪届

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 日本の最近150年くらいの

  社会風俗の変化は

 世界史で最も激しかった

  かもしれません  (^_^;)

 

明治時代の女性が髪を切った時に、千葉県に届け出る「断髪届」が、千葉県白井市の民家から見つかった。download

文明開化で男性はまげをやめたが、女性が髪を短くしてまげをやめることは禁止され、届け出をしないと罰せられた。

白井市教育委員会の戸谷敦司・学芸員は

「女性に伝統的な美を守らせたいという、

 当時の価値観を示すとみられる貴重な資料」

と話している。

白井市教育委員会が、谷田(やた)地区にある旧家の井上家で行った古文書調査で見つかった。

日付は1876(明治9)年10月25日。

井上家長男の妻が、長患いが治るよう願をかけて7月に髪を切った、と義父らが届け出ている。

押印されていないことから、控えとみられるという。

1871(明治4)年に「散髪脱刀令」が出され、

「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」

と歌われたように男性の断髪が進んだ。

女性でも髪を切ってまげをやめる人が出てきた。

まげは油で固めるため、洗髪は半日がかり。

夏場でも月に1度洗髪できるかどうかで、悪臭のため頭痛に悩まされる人もいたという事情もあったようだ。

 

山手線で一番古い駅

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山手線で一番新しい駅、高輪ゲートウェイ駅がもうすぐ開業します。

では一番古い駅はどこでしょうか?

新橋駅とか東京駅かと思いきや、これが違った。

1番古いのはなんと品川駅、1872年(明治5年)5月7日。あと2年で開業150年。

一番古い駅と新しい駅が、お隣になる訳です。

ついで上野駅、1883年(明治16年)7月28日。

3番目がふたつあって新宿駅と渋谷駅、1885年3月1日。

4番目が目黒駅と目白駅で1885年3月16日、(目黒と目白が同日開業ってのもおもしろい)。

5番目が秋葉原駅で1890年(明治23年)11月1日。

新橋駅の開業は1909年(明治42年)12月16日で田町、浜松町と同時で現在の山手線29駅の中では12番目。

おや、日本最初の鉄道は、新橋横浜間ではなかったっけ?

と思って、調べてみると、もちろん最初の鉄道は1872年10月14日(明治5年9月12日)(この頃は暦がグレゴリオ暦ではなかったので、現在の西暦に直すとこうなるそうだ)に走ったのだが、そのときは汐留駅から走ったという。これが初代新橋駅だそう。

しかし品川駅と横浜駅(現在の桜木町駅)が1872年6月(明治5年5月)から仮営業で始まっていた。

「汽笛一声、新橋を~♪」より4か月前です。

それで鉄道駅としては、品川駅と横浜駅(現在の桜木町駅)が、日本で一番古いということになる。

品川駅が開業した1872年(明治5年)は、上野の山で官軍と幕軍(彰義隊)が戦ってからわずか4年後です。

上野駅はまだありませんし、1909年開業の山手線も、まだありません。

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▲なぜか「本能寺合戦の図」となっているが、上野寛永寺の戦闘です

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▲戦闘で焼け野原。現在の東京国立博物館前の広場のあたりかな

戦闘直後は、この辺にも死体がごろごろしていたらしいです

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▲今はこんな感じ

その後起点駅がいろいろ移転して、現在の新橋駅の開業は1909年。

新橋駅はその昔は、烏森(からすもり)駅という名前だった。今もあのあたり、烏森との名前が残っている。

では、山手線で一番新しい駅はと思ってみると、なんと西日暮里。1971年(昭和46年)4月20日の開業。まだ40年の歴史しかない。日暮里と田端の間にできた駅だ。

その隣、日暮里駅の誕生は1931年で22番目。つまり、最後から2番目、西日暮里は一番最後にできた駅だった。

駅が開業した順番、駅名、開業日

01. 品川駅 1872年6月12日(明治5年5月7日)
07. 大崎駅 1901年(明治34年)2月25日
16. 五反田駅 1911年(明治44年)10月15日
04. 目黒駅 1885年(明治18年)3月16日
07. 恵比寿駅 1901年(明治34年)2月25日
03. 渋谷駅 1885年(明治18年)3月1日
10. 原宿駅 1906年(明治39年)10月30日
09. 代々木駅 1906年(明治39年)9月23日
03. 新宿駅 1885年(明治18年)3月1日
18. 新大久保駅 1914年(大正3年)11月15日
14. 高田馬場 1910年(明治43年)9月15日
04. 目白駅 1885年(明治18年)3月16日
08. 池袋駅 1903年(明治36年)4月1日
08. 大塚駅  1903年(明治36年)4月1日
08. 巣鴨駅 1903年(明治36年)4月1日
15. 駒込駅 1910年(明治43年)11月15日
06. 田端駅 1896年(明治29年)4月1日
23. 西日暮里駅 1971年(昭和46年)4月20日
22. 日暮里駅 1931年(昭和6年)12月19日
17. 鶯谷駅 1912年(明治45年)7月11日
02. 上野駅 1883年(明治16年)7月28日
21. 御徒町駅 1925年(大正14年)11月1日
05. 秋葉原駅 1890年(明治23年)11月1日
20. 神田駅 1919年(大正8年)3月1日
19. 東京駅 1914年(大正3年)12月20日
13. 有楽町 1910年(明治43年)6月25日
12. 新橋駅 1909年(明治42年)12月16日 (初代新橋駅=後の汐留駅は、1872年10月15日開業)
12. 浜松町駅 1909年(明治42年)12月16日
11. 田町駅 1906年(明治39年)12月16日

 

▼ほかの駅名も「高輪ゲートウェイ」風にしてみた

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▲クリックすると拡大します

 

池上線まつり

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 兄の目蒲線は分断されてしまったけど
  弟の池上線は無事に走ってます  (^_^;)
 
「池上線全線祭り」が11月23~24日、五反田駅から蒲田駅を結ぶ東急池上線沿線で実施される。主催は東京急行電鉄。
同イベントは、東急池上線沿線の活性化を目的とする「『生活名所』プロジェクト」の第2弾。
昨年10月には、同プロジェクト第1弾として「池上線フリー乗車デー」を開催した。
乗車数は約56万9000人、池上線の認知度は63.7%(イベント前54.3%)となった。
同イベント広報担当者は「昨年は地域の商店街や店舗、企業の方々に協力いただき盛況だった。今回も地域の方々を中心にイベントを盛り上げていくことで、池上線沿線の魅力を伝えられたら」と話す。
当日は、東急池上線各駅でさまざまな企画イベントを行う。戸越銀座駅と池上駅の各商店街では、店舗前にテーブルを設置し、名物メニューを食べ歩きできる「ストリートビュッフェ」を展開。洗足池公園では、ボートハウス屋上をテラスとして開放するほか、ボートの無料乗艇(先着109組限定)を行う。
今年は江戸無血開城150年にちなみ、勝海舟と西郷隆盛のゆかりの地を巡る「幕末・明治スタンプラリー」とのコラボ企画も行う。
勝海舟の別荘があった洗足池と西郷隆盛が本陣を置いた池上本門寺周辺の店にスタンプ台を設置し、鹿児島県産食材を使った「勝丼」「せご丼」を販売する。
洗足駅と池上駅では、スタンプを集めて参加できる「無血開城抽選会」を行う。
そのほか、東急線各駅で現在販売している「東急ワンデーチケット」(660円)を提示すると、池上線沿線の200店以上で使える特典も用意する。
「ほっとスポット戸越銀座」ではコロッケ1個と引き換えできる「歩きコロッケカード」、洗足池駅近くにある鮮魚店「魚忠」では100円サービス券、久が原駅近くの「昭和のくらし博物館」ではオリジナル絵はがき進呈を行う(以上、準備数無くなり次第終了)。
担当者は「今回は持ち帰り用のごみ袋やマナー啓発の冊子を配布するなど、環境面にも気を配った。一路線全駅でイベントを行うのは首都圏の鉄道会社では初の試み。ぜひワンデーチケットで、一駅一駅を楽しんでもらえれば」と呼び掛ける。
 

サラリーマン土方歳三

WS000000土方歳三が現代の会社員なら。
波乱の時代を切り開いた幕末の英雄たちが、もしも現代のサラリーマンだったら、どう行動するだろうか?
そんなマンガが、NHKの「どーも、マンガです。」に登場した。
土方歳三、坂本龍馬、西郷隆盛など幕末の英雄たちが、現代の出版業界を舞台にそれぞれの信念を貫く、サラリーマン歴史ドラマだ。
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幕末のジャニーズ系です  (^_^;)
 

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新選組の名簿発見

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幕末の京都で新選組の前身となった浪士組235人の出身地や年齢、家族構成が記された詳細な名簿が、東京大法学部に保存されていることが5月28日、歴史研究家への取材で分かった。
妻子を持った40代以上の者も多く、中には60代の浪士も。
動乱の時代に立身出世を夢見た新選組の原点が垣間見える。
見つかったのは「浪士姓名簿」と題された冊子で、これまで一部の存在しか知られていなかった。
幕府の呼び掛けで江戸に集まった者の身上書を基に、浪士組取締役だった旗本が一覧を記したものとみられる。
後に新選組幹部となる沖田総司や永倉新八、藤堂平助が近藤勇の道場に同居し、山南敬助が門人の家に間借りしていたことが分かる。
父母や妻子の記載がなく、独り身とみられるのは80人足らず。
63歳が2人おり、「孫」「祖母、母、妻子六人」「父母、兄弟十人」など多くの家族を抱える者もいた。
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63歳と言えば 当時は隠居してる年齢
浪人は大変だったんだね  (~_~;)

本日は土方歳三の命日

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江戸時代の末期、約260年の歴史と新しい時代の潮流が混ざり合う激動の日本において、時代の波に翻弄された男たち・新選組。
田舎のゴロツキから当時の首都「京都」の守護職にまで成り上がった彼らのストーリーと、悲しい最期にロマンを馳せる人は少なくないだろう。
本日2017年5月11日は、土方歳三の148年目の命日だ。
よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東(あずま)の 君やまもらむ
 

新選組に見る破滅的な美

土方歳三と言えば、新選組において1、2を争う有名人。
局長の近藤勇の死後も、その意志を貫き瓦解する新選組と心中した姿には、破滅的な美しさがあると言っても過言ではないだろう。
思えば、肺炎で病死したと言われる沖田総司、正義の味方のつもりが悪者の親玉となってしまった近藤勇。
それぞれに破滅に向かう悲しさや美しさがあって、そこが日本人の琴線に触れるのかもしれない。
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愛刀「和泉守兼定」

それはともかく、東京都日野市にある「土方歳三記念館」では、毎年、命日に合わせ愛刀「和泉守兼定」の刀身が期間限定で公開されている。
2017年は4月2日から5月21日までの公開となっており、
開館日は残り5月13日、14日、21日の3日間
新選組のファンは、訪れてみるのも良いのではないだろうか。
土方家過去帳には
「歳進院殿誠山義豊大居士 行年三拾五才 明治二巳年五月十一日 箱館一本木関門に戦死す 俗名土方歳三 土方義諄の末子幼年より剣術を学び近藤勇と共に京師へ至り終に箱館に戦死す」⇒
 
熱狂的な女性ファンで
大混雑してそうな予感 (^_^;)
 

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