日曜日, 22 of 5月 of 2022

Category » 江戸時代

六本木歌舞伎

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▲戸塚祥太  市川海老蔵

 

 ずいぶん雰囲気が

  変わりましたね~

 「不良の物語」なら

  演技なしの地でいけるかも~

 (^_^;)

 

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▲西麻布事件の直後 → 現在

 

市川海老蔵(44)らが2015年に始めた「六本木歌舞伎」の第四弾が2/18、東京・EXシアター六本木で開幕する。

通称「白浪五人男」、弁天小僧ら盗賊団が活躍する世話物

青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」

を基に、時空を超えて展開する物語で、人気グループ「A.B.C-Z」の戸塚祥太(35)らが出演する。

第三弾まで宮藤官九郎、リリー・フランキーらの作品を歌舞伎化してきたが、三年ぶりの今回は初めて古典演目を題材に選んだ。

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制作発表で市川海老蔵は

「今の人に伝統文化をもっと感覚的に感じてもらうため

 古典を面白くつくり変える。

 今でいう不良の物語で、情熱、粋なところを

 歌舞伎の素晴らしさを生かして伝えたい」

と意図を説明。

現代の物語に「青砥稿花紅彩画」の場面が、劇中劇のように登場する構想だという。

市川海老蔵自身は、弁天小僧菊之助と海老蔵本人役の二役をつとめる。

過去編で呉服屋の跡取り息子、現代編で強盗団を演じる戸塚祥太は歌舞伎初挑戦。

隣の市川海老蔵に

「優しい瞳の奥に、近づけないオーラがある」

と緊張しつつ、

「気持ちが高ぶっている。

 いただいた役をできるように

 歌舞伎の世界にしっかり染まりたい」

と決意を語った。

 


豪徳寺の招福猫児

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 日本人のカワイイもの好きは

  今や世界中に有名ですが

 その頂点にいるのがお猫さま

  (^_^;)

 

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江戸時代の初め、武蔵野でのこと。

とある大名が鷹狩りの帰り、小さな貧乏寺の前を通り掛かった。

ふと大名が寺の山門に目をやると、1匹の白猫が座っており、しきりに大名を招く仕草をしている。

奇妙に思って境内に入ると、住職も驚いた様子で出てきて

「なんのご用事でしょうか?」

と大名に尋ねた。

その寺に大名が訪ねてくることは、めったにないことだったからだ。

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大名が猫に招かれたことを言うと、住職は

  「確かにその猫は当寺で飼っているものだが

   今までそのようなことをしたことがない」

と首をひねった。

しかし、せっかくの縁ですので粗茶でも召し上がっていってください、と言って一行を寺に上げた。

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すると、一同が客殿に上がって間もなく、激しい雷雨となった。

大名は

「猫はこの雷雨にあわぬよう

 寺に上がっていけと言っていたのか」

と感心するとともに、会話の端々から知られる住職の徳の高さにも感服したのだった。

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この大名は彦根藩主の井伊直孝(いいなおたか、←)で、これをきっかけに井伊家はこの寺を井伊家の菩提寺とした。

寺は直孝の法名から寺号を豪徳寺とし、以後、大きく発展を遂げた。

その後、この直孝を寺に呼び込んだ猫の姿を模して縁起物としたのが、招き猫の起源だといわれる。

現在、東京都世田谷区の豪徳寺を訪ねてみると、境内には招猫殿というお堂があり、その前には大小の招福猫児(まねきねこ、豪徳寺は招き猫をこう呼ぶ)像が無数に並んでいる。

商売繁盛などを祈願してかなった人たちが奉納したものという。

招き猫というと三毛猫のイメージがあるが、豪徳寺の招福猫児は伝説に基づき白猫となっている。

なお、招き猫の起源については、台東区の今戸神社など複数の説があり、どこが最初なのかは分かっていない。

 

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江戸幕府の国際インテリジェンス

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▲長崎の出島

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明治政府は、敵だった江戸幕府をことさらに貶めるために、江戸幕府の後進性を宣伝しました

これが庶民の常識になって、今でも時代劇などでは、その間違った常識の上で作られたりしています

(^_^;)

 

江戸幕府は長崎の出島を通じて、国際情勢や西洋の武器、技術などの情報を吸収していた。

江戸幕府は、オランダに特権的に出島を提供する代わりに、オランダ東インド会社が獲得した高度な国際情報を、出島駐在オランダ人責任者に報告書形式で整理させ、毎年江戸を訪問して江戸幕府にブリーフィングさせていた。

このようなブリーフィングは、1857年(明治元年の12年前)まで、合計166回

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1853年7月、米国ペリー艦隊(黒船)出現に幕府が大きな衝撃を受けたという話は事実ではない。

幕府は既に、オランダ東インド会社を通じて、米国ペリー艦隊の動向を詳細に把握しており、日本に到着する時期まで正確に把握していた。

中国(清朝)が英国とのアヘン戦争に敗れ、窮地に陥っていたことも知っていた。

何も知らない江戸の町人は、黒船に驚いたかもしれないが、幕府首脳は

「ついに来たか」

くらいに感じていた。

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だから幕府が驚いたのは、ペリー艦隊(黒船)の出現自体ではない。

ペリー艦隊の攻撃に備えて、幕府は火砲などの武器を準備して待っていたのだが、実際のペリー艦隊の武装水準(大砲の性能など)を目で見て確認した結果、予想よりもはるかに強力だった。

だから幕府は驚いた。

百聞は一見に如かず。

 


タリバン 女性を虐殺

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日本でも徳川時代の初めには、つい最近まで戦国の修羅場で戦っていた荒くれ武士が多かったようです

道ですれ違った際に、ちょっと触れただけで刀を振り回すような事件が多発したそうです

そんな物騒な世相を改めて、天下泰平の世の中になるように、家康をはじめ幕府首脳は苦心しています

でも結局、世の中が本当に静まるには、そんな荒くれ武士が年老いて、平和な時代に生まれ育った次の世代が育つまで待つ必要がありました

世の中の人心が変わるというのは、そういうことかもしれません

(^_^;)

 

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アフガニスタン北部の町で、タリバン戦闘員が、調理人の女性に火をつけて殺した。

理由は「食事がまずい」だった。

アフガニスタン南部ラシュカルガでは、米軍と無関係の男性(35)の自宅に、戦闘員が小銃を手に踏み込み、「お前も米国のスパイだ」などと吐き捨てた。

イスラム教の宗派が異なる少数民族が、拷問されたとの情報もある。

イラン国営テレビに出演したタリバン報道官は、一部の戦闘員による蛮行を認めたが、

「我々も人間だ。過ちは仕方がない」

と開き直った。

構成員らの処罰には言及しなかった。

 


散歩 荻生徂徠のお墓

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昨日2/13は天気が良かったので、散歩しました

このところ寒かったので、家の中をいろいろ断熱DIYしていたのですが、そのとき直角測定の必要性を感じ、三田にあるケーヨーD2というDIYショップ(ホームセンター)で指矩(さしがね)を買いました

プロの大工さんは、たぶんもっと大きいのを使いますが、私はアマなので30センチの小さいやつ(↓、327円)

ちなみに私はDIYツール(日曜大工道具)を買う場合

1)百均ダイソーなど 超安いけど、安いなりにショボい、品揃え少ない

2)通販アマゾンなど 何でもあって割と安いけど、実物を見れない、送料かかる場合あり

3)三田のケイヨーD2 少し高いけど、たいていのものは揃う

4)渋谷の東急ハンズ 高いけど何でも揃うし、店員さんが相談に乗ってくれる

の順番で探します

 

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そのあと通りを歩いていたら、「史跡 荻生徂徠」という表示があったので入ってみました

元禄赤穂事件(忠臣蔵)では、義士を賛美して助命を願う世論に対して、徂徠は切腹論を説いた

そのお墓が、泉岳寺の近くにあるというのも歴史の皮肉

(^_^;)

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ボロ市が中止

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 クリスマスやお正月も

  盛り上がらないだろうし

 季節感に乏しい

  年末年始になりそうです

 (T_T)

 

東京世田谷区の冬の風物詩「ボロ市」が、今シーズンは新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止される。

主催する「せたがやボロ市保存会」によると

「開催するとすごい密状態になり、感染防止対策も難しいため」

という。

ボロ市は、毎年十二月と一月の十五日と十六日に、同区世田谷一の世田谷代官屋敷前のボロ市通りを中心に開かれる。

都内最古級の季節市で、都の無形民俗文化財にも指定されている。

日用品や雑貨、飲食などの出店が並んでにぎわい、例年は四日間で計約八十万人が訪れる。

6年前の写真へ

 


役者・奥野瑛太

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革命や敗戦などで体制がひっくり返ると、旧体制の上層部も路頭に迷う

明治維新では旧幕臣の多くが、単なる失業者に転落した

江戸時代初期には、多くの藩が「お取りつぶし」になって、藩士は禄を失った

何か武士以外の特殊技能を持つことは、本物の武士にとって恥とされていたから、ツブシが効かない人も多くいたことだろう

映画「一命」では、失業した武士の一家が内職をしながら、極貧の中で細々と暮らしていて涙を誘う

(T_T)

 

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朝ドラ『エール』の「智彦さん」(奥野瑛太(←)は、当時のふつうの人である。

がちがちに真面目で、家でも威厳を保つ主人である。

外で起こったことを、家内では話題にしない、というタイプだった。

これは軍人にかぎらず、昭和前半の家庭風景としては、ふつうのことだったとおもう。

ふつうの血の通った人として描かれていた。

軍人だったから、戦争が終わると路頭に迷う。

軍人は「政府の役人」でもあり「戦争という特殊技術の人」でもあった。

でも戦争が終わり、軍は解体されて再軍備は禁止されたので、それまでのキャリアがまったく使えない。

過去のキャリアが何も役に立たない、ただの無職である。

職を探して苦労している姿が見られた。

すべてをもてあましてる感じが出ていて、その姿を見せる役者・奥野瑛太が見事だった。

この人は、とても身体性を強く感じさせる役者だとおもう。

セリフを言う前の存在感がきちんとしていて、その佇まいだけで見入ってしまう。

再就職のときに彼の出した履歴書が映しだされていたが、それには赫々たる履歴が並んでいた。

陸軍幼学校から士官学校に進んだエリートで(幼学校は当時の中等学校にあたる)、卒業後、騎兵隊第十九連隊の少尉に任官。

最後は中佐まで昇進している。すごいエリートである。

最後の昇進はいわゆる「ポツダム昇進」、つまり敗戦が決まってからの昇進ではないかとおもわれるが、それまででも少佐である。

すごく偉い。なんか、軍人さんの位で偉さを測るのは裸の大将をおもいだしてしまうのだが、でもそういうしかない。

履歴書が映し出されたあとに、工場の鉄屑拾いの仕事があるといわれ、そんなものができるかと、憤然と席を立つシーンがあったが、たしかにそうだろう。

陸軍中佐は、ふつう鉄屑拾いをやらない。

プライドがあまりに高い。

詳細はここをクリック

 

 


読書 葉隠入門

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「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」で有名な佐賀鍋島藩に伝わる思想書「葉隠」を、三島由紀夫が自分流に解説している

世の中には、損得で動く人間と、そうではない人間がいる

後者でなければ大業は成し得ぬと言ったのは西郷隆盛だが、現実の社会は前者が大部分を占めている

損得で動く人間の行動は予想しやすいので安心感がある

けして無茶な行動には走らない

経済学などは、そのような合理的人間を前提として理論を構築している

しかし江戸時代、家臣が主君への忠の覚悟と生き方(死に方)を本気で貫くには、損得の感覚では具合が悪い

損得を超えた武士の哲学が必要とされ、それに応えたのが「葉隠」だった

「葉隠」は、損得勘定の武士道を、上方流(商人のようだ)と罵っている

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一方、三島由紀夫(→)は天才にありがちな、かなり変わった価値観(性的嗜好と言ってもよい)の持ち主であり、「美しく高貴に死にたい」という潜在欲求(タナトス)が極めて旺盛だったように思われる

彼はそのために、自らの死を正当化し、美化し、高貴なものとするための壮大な内面世界を構築し、作品化し、行動化していった

三島にとって「葉隠」は、そのような内面世界構築の材料としては、非常に魅力に富んでいたものと思われる

「葉隠」の思想を語った山本常朝には、死を自己目的とする意識は希薄で、ただひたすら主君への忠を貫くには、生と死の二者択一の場面では、常に死を選ぶ覚悟を持てと主張しているに過ぎない

それは、三島が45歳で自決の道を選び、山本常朝が61歳(当時としては長命)で天寿を全うした違いとなって表れている

死を本気で覚悟した人間には、それまでの世間(損得勘定の世界)が従来とはまったく違って見えるのは、何となく想像できる

近松門左衛門が、死を覚悟して心中への道行(駆け落ち)に出た男女二人は「急に背が伸びた心地がする」としているのは、まことに鋭い描写だと思う

本当の人生や美意識というものは、その感覚の後に生ずるものかもしれない

(^_^;)

 


世田谷・杉並の真っすぐ道路

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今回、九州や広島を旅したんですけど、特に博多の街の道路が広いのが印象に残りました

道がまっすぐで、車道だけでなく歩道も広いので、歩いていてとても気持ちがいい

これは「太閤の町割り」と言われる、豊臣秀吉による都市計画のおかげだそうです

秀吉の若い頃の、大らかな性格が伝わってきます

一方、東京は徳川家康が作った町ですが、道が狭くてぐにゃぐにゃ曲がっている

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これは猜疑心の強い家康が、敵から攻められた場合を考えて、わざと攻めにくい都市計画をしたことに関係があるらしい

用心深い家康のおかげで、日本人は世界でもまれに見る260年間もの長い平和を享受した訳ですが、都市計画には向いてない性格だったようです

(^_^;)

 

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世田谷区と杉並区にわたって、8km以上続く一直線の道路があります。

都道に指定されているこの道路、成り立ちは大正時代までさかのぼります。

地図で都内を見ていると、小田急の祖師ヶ谷大蔵駅付近から丸ノ内線の新高円寺駅付近まで、一直線に道路が走っているのが見えます。

この道路は東京都道・高円寺砧浄水場線に指定されています。

現地に行くと、大部分がセンターラインのない狭い道路ですが、ほぼ全線が直線のため、道路がはるか遠くまで続いていくのを見通すことができます。

東京の街並みは武蔵野台地とそれを川が浸食していった地形の関係で起伏が大きく、道路もその起伏に合わせてほとんどが曲がりくねっています。

にもかかわらず、この直線道路はどうしてこんなにもまっすぐ走っているのでしょうか。

実はこの道路の真下には、「荒玉水道」と呼ばれる直径1.1mの水道管が通っています。

荒玉水道はさかのぼること大正時代、増加する東京の人口の水需要に対応するため、多摩川で取水した水を都内に送るのを目的に設置工事が始まりました。

そして、埋設水道管の敷地を歩行者道として活用したのが、この直線道路のはじまりです。

現在は自動車も通行可能となっていますが、水道管への荷重を考慮し、重量制限が掛けられていたり、ラバーポールによって物理的に幅員が制限されているところがあります。

また、狭隘な道路のため、一部区間では一方通行となっています。

この道路を東急バスや小田急バスのバス路線が通っていますが、重量制限のある区間を走る路線は、小型バスで運行されています。

 

 


水前寺公園

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さすが細川家の名園!

(^_^;)