すぐに希林さんの後を追ったところに
男の愛と哀しさを感じます (T_T)
ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也(うちだ・ゆうや、本名内田雄也)さんが17日、東京都内で死去した。79歳。
兵庫県西宮市出身。17年11月に脱水症状で倒れてから車椅子生活を余儀なくされていた。
18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。
都知事選出馬など常に話題を提供し続けたロック界のカリスマだった。
希林さんの死から半年、波乱に満ちた“ロケンロール人生”に幕が引かれた。年明けから体調が悪化し、17日に天に召された。
1995年に俳優の本木雅弘(53)と結婚した長女の也哉子(43)らが裕也さんの遺体に寄り添っていた。
晩年は病気やケガと闘う日々が続いた。16年11月に英国ロンドンのホテルの浴室で転倒し、尾てい骨を強打。
17年夏には転倒して右足甲を骨折。
さらに同11月に脱水症状を起こして緊急入院するなど、満身創痍(そうい)だった。
完全復帰を目指してリハビリに励んできたが、日増しに体力は低下。
自身が主催する恒例の年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」にも17~18年からは車椅子で出演。
執念で立ち上がり、熱唱する状況が続いていた。12年から毎年欠かさず参列していた3月11日の東日本大震災の追悼式も今年は欠席していた。
エルビス・プレスリーに憧れて高校を中退し、1957年にバンドボーイとして音楽活動をスタートさせた。
幾つかのバンドを渡り歩き、66年のビートルズ日本公演では尾藤イサオ(75)らとの特別編成のバンドで前座を務めた。
同年、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた沢田研二(70)らをスカウト。これが後のザ・タイガースとなった。
67年には麻生レミをボーカルに据えて結成したフラワーズにジョー山中さんらが参加し、フラワー・トラベリン・バンドとして再編成。
アルバムがカナダチャートで8位を記録するなど海外でも活躍し、邦楽ロックの礎を築いた。
70年代からは映画俳優としても活躍。
崔洋一監督の「十階のモスキート」(83年)、自ら脚本を手掛けた滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」(86年)など話題作に主演した。
私生活では故かまやつひろしさんの紹介で出会った希林(当時悠木千帆)さんと73年10月にスピード結婚。
裕也さんの家庭内暴力などもあり、1年半で別居生活に入った。
81年には一方的に離婚届を提出。希林さんが訴訟を起こし離婚成立を阻止する一幕もあった。
別居生活は43年半にも及び、裕也さんは大麻取締法違反(77年)、銃刀法違反(83年)、そして強要未遂と住居侵入容疑(11年)と3度の逮捕歴を重ねた。それでも離婚には踏み切らなかった。
2人にとってお互いは特別で最愛の存在だった。
長女の也哉子が離婚しない理由を聞いた際に希林さんは
「彼にはひとかけらの純なものがあるから」
とし、一方の裕也さんも
「一生頭が上がらない」
と話していた。
91年には東京都知事選に出馬。政見放送で「パワー・トゥ・ザ・ピープル」と「コミック雑誌なんかいらない!」を歌うなど自由奔放な人生を貫き「シェキナベイベー」の名言も残した。
内田裕也(うちだゆうや)
1939年(昭14)11月17日生まれ、兵庫県出身。
神戸のジャズ喫茶でならし、エルビス・プレスリーに憧れて上京。
58年にブルージーン・バップスを結成し59年にデビュー。
渡辺プロ退社後の67年からヨーロッパを1年あまり放浪。
帰国後、日本ロックの振興に大きく貢献した。
阪神大震災、東日本大震災発生後はいち早く被災地に入り、ジョー山中さんや安岡力也さんら“ファミリー”を引き連れ炊き出しなどを行った。