昭和

十三代目

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 あの事件と 奥さんのご不幸で

  すっかり「良い子」になった海老蔵さん

 芸の肥やしは 足りてる?  (^_^;)

 

今年5月に十三代目市川團十郎白猿(いちかわだんじゅうろうはくえん)を襲名する歌舞伎俳優の市川海老蔵(えびぞう)(42)が7日、長男、堀越勸玄(かんげん)くん(6)と東京都内で記者会見に臨み、「気負わず、慌てず、しっかりやれることをやりたい」と意気込みを語った。

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6月に八代目市川新之助を名乗り、「外郎売(ういろううり)」で初舞台を踏む勸玄くんも「楽しみです。がんばります」と話した。

市川團十郎は、江戸時代から続く歌舞伎の大名跡(だいみょうせき)。

海老蔵の父、十二代目團十郎が平成25年に死去したため、團十郎の名跡は7年ぶりの復活となる。

東京・歌舞伎座での襲名披露興行は5~7月に行われる。

襲名披露狂言は、七代目團十郎が家の芸を集めて制定した「歌舞伎十八番」のうち「勧進帳」「助六」など、團十郎家ゆかりの代表的な演目が上演される。

「勧進帳」で武蔵坊弁慶を演じる海老蔵は、

「命がけで向き合う男の姿と、團十郎を襲名する私の姿が

 重なるようにできたらいいかなと思っている」

と語った。

市川海老蔵は昭和52年、十二代目市川團十郎の長男として東京に生まれた。

58年5月、「源氏物語」の春宮(とうぐう)で初お目見え。

60年5月、「外郎売」の貴甘坊(きかんぼう)で七代目市川新之助を名乗り、初舞台。

平成16年5月、「暫(しばらく)」の鎌倉権五郎(ごんごろう)ほかで十一代目市川海老蔵を襲名した。

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男は弱いよ 金ピカ先生

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派手な格好で羽振りのいいイメージが強かった「金ピカ先生」が孤独死したというニュースは、日本中に衝撃を与えた。
それは、多くの人にとって彼の死に様が他人事に思えぬものだったからに他ならない。

話が嚙み合わない

「ハァ、ハァ、ハァ……早く死にたい」
8月下旬のまだ暑い日、本誌は生前の「金ピカ先生」こと佐藤忠志さん(享年68)を取材し、9月7日号の特集でその変わり果てた姿を伝えていた。
かつて築いた財産をすべて使い果たし、生活保護と、週に2回のデイケアサービスだけを頼りに生きていた佐藤さんの家は電気もガスも止められ、熱気がこもる寝室には、異臭が充満していた。
骨と皮だけのようになった身体にパンツ一枚の姿で、ガラス玉のような両目は、遠くを見つめたまま動かない。
口にするのは近所のコンビニで売られている格安のカップ焼酎と、タバコだけ。息も絶え絶えの様子で焼酎をあおり、ゴホゴホとむせる。
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「山城(新伍)、梅宮(辰夫)、(菅原)文太、あの頃の東映ヤクザ映画は楽しかったですね……」
頭がもうろうとしているのだろう。予備校講師時代の思い出を尋ねても、会話が嚙み合わない。
取材中、佐藤さんの口をつくのは「自分は生きる屍」「何にも関心がない」「早く死にたい」という、絶望に支配された人間の言葉ばかりだった。
そして、この取材からわずか1ヵ月足らずで、佐藤さんは誰にも看取られることなく、たった独りでこの世を去った―。
バブル期に一世を風靡し、最盛期には年間2億円とも言われる収入を得ていた佐藤さんは、なぜこれほどまでにも哀しく、孤独な最期を迎えなければならなかったのか。
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佐藤さんは、’90年代前半にはすでに講師を引退。その後は、知名度を活かしてタレントとして生活していたが、ブームはあっという間に過ぎ去り、収入は講師時代の100分の1以下に。
それでも、かつては毎日のように高級ホテルで食事をし、地方への移動も常にファーストクラスだった佐藤さんの放蕩ぶりは一向に収まらなかった。
「貯金はあっという間に減っていきましたが、決定打になったのは、なけなしのおカネを元手に出馬した’01年の参議院選挙でした。自民党から出馬したものの、落選してしまった」(佐藤さんの友人)
穴埋めのため、予備校講師時代に建てた「豪邸」も売り払った佐藤さんが、中野区内にある実家に妻と共に越してきたのは、いまから5年ほど前のことだった。
「もともと、あの家には佐藤さんの母親が住んでいました。お母さんはハデな人で、ヒラヒラのフリル傘を片手に真っ赤な帽子をかぶったりしていて、佐藤さんの独特のファッションセンスは母譲りだったと思います。
そんな母親が亡くなって間もなく、佐藤さんと奥様が引っ越してきた。あの頃はまだ元気で、『いくらの時計を買った』とか『収入がウン千万円あった』とか、昔の自慢話をよくしていました。でも奥様は常識人でね。いつも腰が低い人だった」(近隣住民)

そして妻は去った…

金遣いの荒さは「金ピカ先生」の異名どおりだった佐藤さんだが、人柄については見た目とは裏腹に穏やかで、人を怒鳴るようなことは一切なかったという。
そして、周囲の人が口をそろえるのは、「人一倍仲の良い夫婦だった」ということだ。
「先生は温泉が大好きで、羽振りの良かった時代はいつも夫婦で伊豆や箱根に出かけていた。そういう旅行も、外食するときも、先生は絶対に奥さんを連れていました。
奥さんはお嬢様育ちで、実家は相撲部屋の後援会会長をしていたほど。先生とは対照的に常に地味な服装で、とても出来た人でした。旦那さんを常に立てていて『うちの佐藤がすみません』というのが口癖でした。
先生はおカネの管理がまったくできない人なので、カネ回りの世話は奥さんがぜんぶやってあげていました。誰かとご飯を食べるときはいつも先生の奢りなので、奥さんの鞄には100万円の束が入っていた。
先生が、講師を辞めてあまりおカネがなくなってからも、奥さんが先生のもとを離れることはありませんでした。10年ほど前に先生が脳梗塞で倒れた直後も、奥様は献身的に世話をして、きっちり断酒を成功させていました」(前出・佐藤さんの友人)
仕事以外のことはまるで何もできない夫と、半歩後ろを歩きながら身の回りを甲斐甲斐しく世話する妻。
典型的な「昭和のおしどり夫婦」の関係に亀裂が走ったのは、実家に移ってから2年ほどが経ち、夫婦の生活が本格的に困窮してからのことだった。
相変わらず近所の飲食店に行くにもタクシーを利用するような佐藤さんの暮らしぶりに妻は呆れ果て、二人の間には喧嘩が絶えなくなった。
ついには「死ぬまで住み続けていい」という条件のもと、知人に自宅を売り払い、そのカネで高級外車を買おうとした佐藤さんに妻の怒りは限界に達した。’17年のある日、突然家を出ていってしまう。
そこから、佐藤さんは死に至る孤独な日々を過ごすことになる。
〈もう女房に未練ないし〉
〈(独りで生きる余生は)バラ色ですよ、ずっと〉
昨年の夏に『スポーツ報知』の取材を受けた際には、以前の威勢の良さがまだ残っていた。だが、それは精一杯の強がりだった。
プライドと見栄の塊だった佐藤さんは、実入りが減って人に奢ることができなくなってからは、次第に友人たちとも没交渉になっていったという。きっと、「みっともない姿は見せられない」と思っていたのだろう。
そんな佐藤さんにとって、妻はありのままの姿をさらけ出すことのできる、唯一の相手だった。
その「たった一人」を失った瞬間から、佐藤さんの本当の苦しみが始まった。
誰もいない部屋で、話し相手もなくタバコをくゆらせながらぼんやりと過ごす毎日。
「過去の人」になっても、カネがなくなっても、病気になっても、多くの人が離れていっても、それでもそばにいてくれた妻が、ついにいなくなってしまった。
〈自分の人生には、もうなにひとつとして残されていない〉
決して取り返すことのできない過ちに気づいたとき、佐藤さんが感じた絶望はいかばかりだっただろうか。

「全部オレが悪い」

気づけば、すっかり自暴自棄になり、心の痛みを少しでも紛らわそうと、朝から晩まで大量の酒をあおるようになった。
そして、昨年の秋には、デイケアサービスがないと生活できないところまで体調が悪化した。
デイケア施設の関係者が言う。
「地域包括支援センターの職員が様子を見に行った結果、『もう一人では生きられないから、サービスが入ったほうがいい』という判断になりました。
担当のヘルパーが佐藤さんの家に初めて足を踏み入れたとき、中は荒れ放題で、床のそこかしこに落ちたゴミが異様な臭いを放っていた。
できる限りのことはしようと思いましたが、当のご本人が生きる意欲をまったく持てなかった。当初はコンビニでサンドイッチなどを買っていましたが、次第に食べることすらやめてしまった」
電気もガスもつかない真っ暗な家のなかで、服をまとわぬ佐藤さんはじっと虚空を見つめ、微動だにしなかった。
このときの様子を「恐らく、完全な『自己放任』状態だったのではないか」と語るのは、遺品整理業「あんしんネット」の石見良教氏だ。
「『自己放任』は社会から孤立していた人が、死別や離婚で唯一の心の拠りどころだった人を失ったり、病気などの負の出来事に見舞われたりして、孤独に耐えられずに自暴自棄になってしまうことです。
とりわけ、佐藤さんのように子供のいない高齢男性はその傾向がより顕著になる。普通、人間は生ゴミの臭いに耐えられず片付けたくなるものですが、毎日ボーッと過ごしているうちに感覚が麻痺して、それが異常であることにすら気づかなくなってしまう」
すでにほとんど会話することさえままならなくなっていた佐藤さんだが、時折、妻への気持ちをこぼしていたという。
「よく言っていたのは『こうなったのも全部オレが悪いから仕方ないよな』と。もとから、奥さんの悪口を言うのは聞いたことがありませんでした。
自分が悪かったというのは重々わかっていたと思います。ごくたまに奥様が訪ねてくることがあったようで、そのときは嬉しそうに話していました」(前出・施設関係者)

男は弱い

羽振りが良かった時代を忘れられず放蕩を続け、すべてを頼り切っていた妻に愛想を尽かされる。
佐藤さんの辿った末路を、「自業自得」の一言で片付けるのは簡単だ。
しかし、どんな形にせよ、すべての夫婦に離別のときはやってくる。佐藤さんが襲われた絶望は、誰にとっても決して他人事ではない。
「連れ合いと離れた後、女性は『独りで生きなきゃ』と覚悟を決めて強くなる場合も多いのですが、男性の場合は、一気に弱ってしまう人が少なくありません。
近所付き合いや友人付き合いの多い女性にとって、夫は『たくさんある人間関係の一つ』に過ぎませんが、定年後に仕事関係のお付き合いがなくなった男性にとっては、奥さんとの関係は唯一無二のもの。
死別や離婚でそれが失われると、どうしていいかわからず、ただ呆然と立ち尽くしてしまうのです」(ケアマネージャーオフィス「ぽけっと」代表の上田浩美氏)
自分では何もできない男が独りになったときに襲われる、どうしようもない孤独。
人知れず最期を迎えた瞬間、佐藤さんがせめて絶望から解放されたことを願ってやまない。

「週刊現代」2019年10月12・19日合併号より

 

羽田空港

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 羽田空港は都心から近くて とても便利です
  不便な成田空港は 貨物専用空港にして
 旅客は羽田に 集約して欲しいです  (^_^;)
 
東京・羽田空港。
展望デッキの目の前をさまざまな飛行機が轟音(ごうおん)を響かせ飛び立っていく。
方角は同じでも、それぞれ違った軌道を描き、風に翼を乗せていった。
羽田空港の歴史は1931(昭和6)年、53ヘクタールの敷地に1本の滑走路を敷いた「東京飛行場」から始まる。
戦後、米軍に接収されるなどしたが55(昭和30)年に空港ターミナルがオープン。
そして、日本の経済成長、人口増加に合わせ拡張と再開発を重ねてきた。
海外渡航の自由化、ビートルズ来日、ジャンボ初飛行…。
羽田空港はエポックメーキングな出来事の舞台となった。
今や約1500ヘクタールの敷地に3つの旅客ターミナル、4本の滑走路を備え、面積、発着回数、乗降客数いずれも日本最大の空港だ。
国内、国際線を合わせて1日に計約1200回の発着が行われる
朝から夕方まで離着陸する航空機を撮影した。
空気が澄んだ日、午前8時半から午後5時まで、羽田空港の滑走路を離着陸した計70機を、三脚を据えて撮影した。
すべて同じ画角で撮った機体を、その軌道上で1機につき1枚切り抜いて合成してみた。
するとそこには、大空を埋め尽くさんばかりに混雑する首都の玄関口の姿が現れた。
2020年夏、選手や観客がこの空港に降り立ち、東京五輪・パラリンピックへの熱い第一歩を踏み出していく。
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▲1972(昭和47)年の羽田空港

 

開成高校

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もし一流高校「男子御三家」が、プラモデルを組み立てると、

麻布生……組立説明書は無視、感覚だけで独創的かつ味のある逸品を製作する。

開成生……組立説明書を一言一句しっかり読み込み、精巧で完璧な作品を製作する。

武蔵生……組立の途中で各パーツにのめりこんでしまい、なかなか作品が完成しない。

今回は「開成」を取り上げたい。

東大ナンバーワンの座に38年君臨しつづける開成

開成といえば何といっても東京大学合格者数ナンバーワンを誇ることで全国的に名を馳せ、進学校の頂点に燦然と輝く学校だ。
この栄誉は近年だけのことではなく、1982年以来、実に38年に渡ってナンバーワンの座に君臨するというのだから凄い。
2019年の東大合格186名(浪人を含む)。
なお、第2位は筑波大学駒場が120名である。
前回紹介した麻布が都心の一等地、高級住宅地の中に位置するのとは対照的に、開成は下町情緒漂う場所に存在している。
学校所在地は荒川区西日暮里4丁目。

開成卒業生同士のあいさつは「何組?」

わたしの経営する中学受験専門塾で開成出身の講師がいる。
あるとき、生徒の父親が開成出身だと判明した。そのとき、ロビーで二人のはしゃいだような声が講師室まで響いてきた。

「え!? お父様は何組ですか? わたしは紫組だったのですが」

「わたしは緑組だったのですよ!」

「そうなんですねえ!」

そんなふうに盛り上がっている。
ひとりの卒業生が「色」の意味を教えてくれた。

「運動会本番は8色分の桟敷があって、そこに並んで応援するのです。組ごとに色が決められています。1組が紫、2組が白、3組が青、4組が緑、5組が橙、6組が黄、7組が赤、8組が黒です」


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壇蜜さん結婚!

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 壇密先生の保健体育の授業
  どんなこと教えてるんだろ?  (^_^;)
 
タレントの壇蜜(38)が、『東京都北区赤羽』『ウヒョッ!東京都北区赤羽』などで知られる漫画家・清野とおるさん(39)と結婚することが21日、スポーツ報知の取材で分かった。
「いい夫婦の日」の11月22日に婚姻届を提出した。
 
テレビ局関係者によると、2人は17年3月に放送されたTBS系『櫻井・有吉THE夜会』での共演をきっかけに交際をスタート。
 
壇蜜(だん・みつ)
本名・齋藤支靜加(さいとう・しずか)。
1980年12月3日、秋田県生まれ。38歳。
昭和女子大卒業後に銀座のクラブ、葬儀会社の研修勤務などを経て2009年デビュー。
10年に本名から改名。芸名の壇は仏壇、蜜は供え物を指す。
14歳から始めた日本舞踊は師範の資格を持つ。
レギュラーはNHKラジオ第2「高校講座 保健体育」、文化放送「大竹まことゴールデンラジオ!」水曜パートナー、同「壇蜜の耳蜜」。
身長158センチ。血液型O。
 

天皇皇后両陛下 伊勢神宮ご参拝


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 皇后陛下雅子さまが「お若い」と話題です
  最近はご表情も明るくなられたようで
 とても喜ばしいことだと思います  (^_^;)
 
天皇皇后両陛下は、「即位の礼」と「大嘗祭(だいじょうさい)」が終わったことを伝える儀式として伊勢神宮に参拝するため、21日から三重県を訪問されています。
両陛下が伊勢神宮を参拝されるのは、天皇陛下のご即位後、初めてです。
両陛下は、21日午後0時半前に、JR東京駅の貴賓玄関に到着されました。
両陛下は東海道新幹線のホームで、見送りに来た山東参議院議長などからあいさつを受け、にこやかな表情で一人ひとりとことばを交わし、臨時の専用列車に乗り込まれました。
両陛下が伊勢神宮を参拝されるのは、天皇陛下の即位後、初めてで、歴代天皇に伝わる三種の神器の剣と曲玉が持ち出され、側近の職員によって、列車の中に持ち込まれました。
両陛下は名古屋駅で私鉄の専用列車に乗り換え、午後4時半前に三重県伊勢市の近鉄宇治山田駅に到着されました。
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駅前では詰めかけた大勢の人たちから大きな歓声があがり、両陛下は、笑顔で手を振って車に乗り込まれると、歓迎にこたえながら宿泊先の伊勢神宮の内宮(ないくう)に向かわれました。
沿道では薄暗い中、子どもからお年寄りまで1万人を超える人たちが、手や小旗を振って歓迎し、両陛下の車列は、スピードを落として集まった人たちの前をゆっくりと進んでいました。
両陛下は、午後5時すぎに内宮に到着され、入り口にある宇治橋を車でお渡りになって、宿泊先の行在所(あんざいしょ)に入られました。
行在所では、天皇陛下の妹で伊勢神宮の主な祭りをつかさどる「祭主(さいしゅ)」を務める黒田清子さんらがお出迎えしたということです。
両陛下は22日は伊勢神宮の外宮に、23日は皇室の祖先とされる「天照大神」をまつる内宮にそれぞれ参拝し、「即位の礼」や「大嘗祭」が終わったことを伝えられる予定です。
天皇皇后両陛下を歓迎しようと、伊勢神宮内宮近くのおはらい町では、ちょうちん行列が行われました。
ちょうちん行列は、伊勢市や地元の商工団体などで作る委員会が企画し、およそ2000人の参加者は、21日午後6時半すぎから高さ20センチほどの赤と白のちょうちんを受け取り、道いっぱいに並んでゆっくりと、おはらい町を歩き始めました。
いくつものちょうちんの明かりが揺れる中、参加者は宇治橋に向かって歩いていました。
ことし4月に今の上皇さまと上皇后さまが三重県を訪問されたことを歓迎するために行われたちょうちん行列では、ちょうちんにろうそくが使われていましたが、委員会によりますと、今回は安全対策としてLEDライトを点灯させているということです。
伊勢市の40代の男性は

「昭和、平成、令和と時代の流れを感じながら行列に参加しました。

 令和の時代が明るい時代になってほしいです」

と話していました。

▲現在の上皇さまと上皇后さまを歓迎するちょうちん行列

ことし4月に三重県にて

 

大饗の儀

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 日本人に生まれて良かった!
    令和の御代が
 ステキな時代になりますように  (^_^;)
 
天皇陛下が大嘗祭(だいじょうさい)の中心的儀式「大嘗宮の儀」(だいじょうきゅうのぎ)(14、15日)への参列者を招いてもてなされる饗宴(きょうえん)「大饗の儀」(だいきょうのぎ)が16日、皇居・宮殿「豊明殿(ほうめいでん)」で行われた。
安倍晋三首相や三権の長ら約290人が参加。
皇后さまと秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方も臨席された。
陛下は正午ごろ、三種の神器のうち剣と璽(勾玉)をささげ持った侍従らと共に会場に入り

「大嘗宮の儀を終え、皆さんをお招きし、

 大饗を催すことを誠にうれしく思います」

とあいさつをされた。
豊明殿では天皇、皇后両陛下のお席の後ろの壁に、大正・昭和・平成の大饗の儀でも飾られた「錦軟障」(にしきのぜじょう)と呼ばれる長さ約9・3メートルの墨絵を配置。
左右の壁には、大嘗宮の儀に米を納めた悠紀(ゆき)地方(栃木県)の那須連山や男体山、主基(すき)地方(京都府)の嵐山や天橋立などの四季の風景と、関連する和歌が描かれた屏風(びょうぶ)が立てられた。
饗宴中は両地方の風俗舞も演じられた。
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参列者の献立は鯛のお造りと尾頭付きなど。
朱塗りの「御台盤」(おだいばん)と呼ばれる両陛下の御膳には、参列者の献立に加えて蒸しアワビなどが並んだ。
大饗の儀は18日も行われる。
 
 

訃報 八千草薫さん

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 昭和のカワイイ系女優として
  最高峰でしたね  (T_T)
 

映画やテレビで幅広い世代に親しまれた女優の八千草薫さんが、今月24日、東京都内の病院で膵臓がんのため亡くなりました。88歳でした。

八千草さんは大阪府の出身で、宝塚音楽学校を経て宝塚歌劇団に入り、昭和26年に本格的に映画デビューしました。

映画「宮本武蔵」や「蝶々夫人」、舞台の「二十四の瞳」など、かれんでひたむきな日本女性の役を演じて人気を集め、一時代を築きました。
 

ウナギイヌ

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 それにしても よく似てますねー
  赤塚不二夫は 天才だと思います  (^_^;)
 
愛知県で14日に閉幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」では、昭和天皇の写真をバーナーで焼き、灰を足で踏み付けるような映像作品などが、公共施設で税金を投入して公開されたことに批判が集まった。
天皇陛下が即位を宣言される「即位礼正殿の儀」が22日に行われるが、明治天皇の玄孫(やしゃご)で作家の竹田恒泰氏は、公開を認めた愛知県の大村秀章知事に

「大村秀章知事は、出席しないでいただきたい」

「大村秀章知事に、皇居の濠を渡る資格はない」

と発信している。
緊急アンケートの結果は、95%

「大村秀章知事は、即位礼正殿の儀に、参列すべきではない!

だった。
回答者からは、さまざまな意見が寄せられた。

《大村秀章知事は、どの面下げて、陛下にお会いになるんですかね?》

《我が身に置き換えて考えました。これが祖父の写真なら許せません》

《愛知県の恥・大村秀章は、これ以上愛知県民に嫌な思いさせるな!》

《大村秀章知事は、厚顔無恥という意味を知っていますか?》

《大村秀章の参列はアカンやろ。ダブルスタンダードやで》

《大村秀章が参列に行って、門前払いが良い》

《次の選挙で愛知県民の怒りを知ることになると思います》

などがあった。
 

昭和21年 広島のカップル

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▲1945年(昭和20年)10月

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▲1946年(昭和21年)

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▲1947年(昭和22年)

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 2枚目と3枚目は ほぼ同じ角度の写真ですが
  わずか1年で これだけ復興したのですね  (゜д゜)
 
広島の焼け野原を見つめる、若いカップルーー。
昨年8月6日。Twitter上で、そんな「カラー写真」が話題を呼んだ。
撮影日は原爆投下から1年後、1946年8月6日とされていたが、詳細はわかっていなかった。
この写真がデパートの屋上で、共同通信社の企画として同年「8月5日」までに撮影されたものであることが、このたび判明した。
撮影場所は、福屋百貨店(現・福屋八丁堀本店。広島市中区胡町)。
1938年(昭和13年)に完成した8階建ての店舗だ。
原爆で建物の内部は破壊されたが外郭は残り、戦後の復旧作業を経て、
現在も店舗として使われている「被爆建築物」。
「白亜の殿堂」といわれた戦前の姿は、『この世界の片隅に』にも登場する。
そこから南東方向を俯瞰したもので、撮影日は配信された「1946年8月5日」より以前という。
さらに、カップルの頭上には新築の旅館が写っているが、この建物も改築され、いまも飲食店として残っているそうだ。
屋上で語り合っていたカップルは、この写真のどこで、どのような暮らしを営んでいたのだろうか。
そして一体、どんな未来を夢見ていたのだろうか。