昭和

ガッツポーズ

ふじ あやこ、1961年5月10日 – )は、日本の演歌歌手、作詞家、作曲家。
秋田県仙北郡角館町(現在の仙北市)に生まれた。小学4年生の時から民謡を習い、高校卒業後には就職したものの、職を変えながら民謡歌手として地元で活動していた。また、秋田県が主催したミスコンテスト 『ミス花嫁コンテスト』で優勝した。
1985年(昭和60年)には、テレビ番組 『勝ち抜き歌謡天国』(NHK)に出演して優勝している。

藤あやこ – wikipedia
藤あやこさんツイッター

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 藤ナントカ

  という演歌歌手には

 美人が多い

  ような気がするのですが

 (^_^;)

 

還暦ビキニ

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 昭和のおじさんたちが

  昔を懐かしんで

 買っているのかな?

  (^_^;)

 

「鬼滅」も還暦ビキニには刃が立たない!?

40年ぶりのビキニ姿が話題の女優、宮崎美子(61)

「2021年度版カレンダー&フォトブックセット」

(12月25日頃発売)に予約が殺到している。

税込み6600円と少々値が張るにもかかわらず、アマゾンのカレンダー部門の売れ筋ランキングでは23日朝の時点で堂々の1位。

2位と3位の「鬼滅の刃」関連のカレンダーを上回っている。

4位は動物写真家、岩合光昭氏の猫カレンダー、5位は高橋の卓上カレンダーといった定番商品。

7位には人気俳優、横浜流星(24)のカレンダーがランキング入りしており、宮崎の強さが分かる。

 

 

あれから半世紀

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11/25は「あの事件」から半世紀です

日本が生んだ戦後最大の文学的天才が、現実を相手にした行動では、なぜ児戯にも似た杜撰極まる方法で命を落としたのか?

今となっては藪の中だが、おそらく三島は事件の非成功を百も承知で、あえて自らの悲劇的な死への舞台装置として、あの事件を利用したのだろう

ニーチェといい、三島といい、なぜ天才は「悲劇」にかくもこだわるのだろうか?

下の文章は、宮崎正弘氏による書評です

(^_^;)

 

* * * * * * *

 

あれから五十年が閲したとは思えないほど、須臾の時間だった。

昨日の出来事のように、フト生前の三島、森田両氏と会話している(夢の中で)。

おりしも書店に行くと三島本が並びだした。

それもかなりの数である。

「定番」の人々の回想録という周期はおわって、三島事件から後に生まれた世代が、それぞれのアングルから三島由紀夫の世界に挑んでいる。

たまたま日本経済新聞にも「三島五十年」のシリーズが特集され、宮本亜門、宮台真司、吉田大八、熊野純彦など新世代が、それなりの三島を語っていて、視野狭窄、ピント外れ、マニアック、哲学的ブンガク論だったり、しかし、それぞれに光る一行がある。

第一周期は三島と直接付き合った人たちの交友録的評伝の列だった。

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林房雄、石原慎太郎、佐伯彰一、奥野健男、坊城俊民、三谷信、渋沢龍彦らが続き、第二周期は客観的な評伝へと移る。

猪瀬直樹、村松剛、スコット・ストークス、ジョン・ネイサン、松本健一、そして編集担当だった川島勝、小島千加子。

異色は堂本正樹、野坂昭如、福島次郎、岩下尚史氏らの作品だった。

加えて文学的見地からは田中美代子、松本徹ら夥しい人が三島を語ったのだ。

最近では三島と直接付き合った自衛隊OBが退役後の感想をのべたものに加わって、杉山隆男、浜崎洋介氏らの出色の三島論もでてきた。

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ともかく半世紀も経つと、あの驚天動地の三島事件をかくも冷静に見直し、くわえて三島文学に対して、一般的な、通俗な評伝を越えた、ある種冷徹な評価ができるのか、と本書を読み終えて、全体を貫く客観性にまず感心した。

著者の佐藤秀明氏は「前意味論的」と分析方法を断っているが、本書は相対的には意味論である。

さすがに三島文学館の館長を兼任する著者は、四谷の生家を探し当て、死後の評論のなかからも、珠玉を選ぶ一方で、間違いもただしていく。

たとえば、秋山駿は

「死後も成長し続ける作家」

と三島を評した名言を残したが、これはドストエフスキーの言葉がオリジナルだという。

三島が少年時代から憧れ続けたのは「悲劇的なもの」だった

初期の作品群を一覧しても、美しき夭折への、名状しがたい憧憬に満ちている。

衝動的な渇仰が『花ざかりの森』にも『軽皇子と衣織姫』にも、底辺に流れ、漂う。

「前意味論的な欲動」と著者は言う。

処女作と遺作には静謐が共通する。

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昭和四十三年の『太陽と鉄』の最終章には、「身を挺している」「悲劇的なもの」という語彙に加えて「栄光と死」を望んでいると書かれている。

村松剛は「決意を彼が公にした最初の文章だった」と『三島由紀夫の世界』で見抜いた。

しかし『悲劇的なもの』と『身を挺している』という言葉は『仮面の告白』で出てくるのだ。

佐藤は

「職業作家として出発した記念碑的な作品に書いた言葉を、二十年後に死の予感を告白する文章に織り込んだのは、意図してのことであろう」

と分析していて研究者としての慧眼が冴える。

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また『憂国』はまさに悲劇的イロニーに充ち満ちた短編だが、

「作品の意匠は全く異なるが、『潮騒』の幸福感に通じている」

とする。

なるほど、そういわれてみればそうかもしれない。

気になった箇所は三島が机上の空論的に皇居突入計画を立てたという、これは生前も耳にした風説で、当時評者(宮崎)の耳にも聞こえてきたが、佐藤氏はこの顛末を文献的に振り返り、関係者の著作も紐解いている。

真相は薮の中、計画を打ち明けられた自衛隊は冗談だろうと、その場では同調するフリをしたのだろうと評者は想像する。

げんに富士学校へひとりで入隊時に対応した幹部は、三島のクーデター計画を聴いて

「私らは役人ですから」

と冷ややかに言い放ち、以後、明確に距離を置いた。

現在の自衛隊にクーデターを望むこと自体が妄想である。

それは体験入隊を通じて、三島はいやというほどに体得していた。

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まして楯の会を始末に負えぬ存在と考えていた財界の桜田武や自民党は、冷笑したフシが濃厚。

そこで三島は法螺吹きの田中清玄にも自衛隊への斡旋を頼んだとか、虚実こもごもだが、三島が「愛国者」となのる軍人OBや自衛隊幹部、財界の有力者に課した「リトマス試験紙」だったのではないのか、というのが評者の見立てである。

というのも、この皇居突入計画を聴いて以後、距離を置き始めた人が多かったからだ。

ついで三島が吹聴していたのは治安出動を契機とするクーデター計画で、仄聞していた限り、だれも本気とはとっておらず、文豪ミシマの独特のアフォリズム、いや何かの芝居なのかと誤認した。

じつは評者、このあたりの経緯を村松剛氏や編集者、そして楯の会の会員ながらも三島とは距離を置いた学生達から聴いており、その本気度と計画の杜撰さとの整合性を不安に思ったものだった。

そのあとに森田必勝が学生長になって本格的に計画立案に加わり実現性のたかい、綿密な行動計画へ移っていくのである。

佐藤氏はこう言う。

「(戯曲『わが友ヒトラー』にでてくる)レームと突撃隊は、明らかに三島と楯の会を表している。楯の会など政治の権謀術数から見れば、子供騙しの集団でしかないことを作者(三島)は知っている。しかし同時に三島は、レームの単純な盲信が『神々の特質』であることも知り、この戯曲であっさりと粛正される『三度の飯よりも兵隊ごっこが好き』なレームを、戯画化したうえで憧れている」(182p)。

冷徹な、あまりに冷徹なほどの客観性で、本書は一貫している。

「宮崎正弘の国際情勢解題」より

 

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▼三島由紀夫は、ものすごい猫好きでした (^_^;)

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読書 長崎チャンポン

31yhFIMWXLL._SX338_BO1,204,203,200_無頼派の作家、坂口安吾が昭和20年の終戦の5年くらい前と、終戦の5年くらい後、長崎を2回旅した体験をエッセイにしたもの

戦前の長崎は造船所や軍事工場が多く、軍の警戒エリアなので地図もなく、旅に苦労しています

今はスマホにグーグルマップがあるので、旅が非常に楽になりました

彼は隠れキリシタンについて書こうと思って取材旅行をしていた訳です

その中で、長崎の人が長崎チャンポンを大食いすることに驚いています

彼の言によると、現地の人は誰でも、大皿で3人前くらいのチャンポンを、みんな軽く食べてしまうのだとか

長崎では明治になっても隠れキリシタンへの弾圧が続き、逮捕されて拷問されたりして信仰を捨てること(これを「ころぶ」と呼ぶ)を求められています

そのとき厳しい拷問に耐えた信徒の多くが、食事が足りないからもっと食わせてくれるなら、ということで信仰を捨てた(ころんだ)と、坂口安吾は驚いています

記録によると、このとき逮捕された隠れキリシタンには「1日3合」の飯が給されていたそうで、現代人の感覚では簡単に食べられる量ではありません

長崎人の大食(食欲)には驚くべきものがあるとしています

(^_^;)

▼長崎チャンポン

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読書 日本文化地理大系2 福岡

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漫画家のつげ義春が旅に出る時に読んでいた旅ガイド

旅ガイドと言うより、かなり学問的な地理の本で、各県の自然、歴史、経済、社会などが詳しく書いてある

欧米で出版されてる旅ガイド(ミシュランとかロンリープラネットとか)は、歴史や社会についての詳しい説明があるのに、日本の旅ガイドは、どこのお店が美味しいとか、どこのお土産がカワイイとかに特化していて、イマイチ物足りない

本書は昭和36年(1961年)に出た古い本なので、高度成長期より前の「古き良き日本」を感じることが出来ます

ヤフオクで激安で買いました

大判で400ページもあるので、今日は福岡県を読みました

(^_^;)

 

▼炭を運ぶ人たち 今の中国奥地みたい ((((;゚д゚))))

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▼まだ集塵装置も無い時代の煙突

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▼八幡製鉄所の高炉

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大阪都

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大阪の気取らないところは好きだけど

 「都」と呼ぶには 都会的洗練

少々足りないような気がするんだよね

  (^_^;)

 

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吉村大阪知事(→)は9/23に記者会見を開き、

10/11に住民投票で「大阪都」構想の賛否を問う

とした。

松井市長も、賛同を得られなければ辞任すると宣言した。

行政改革の一環としての二重構造の解消、行政の効率化が目的としていることは賛成である。

問題は「都」という名称なのだ。

「都」とは「みやび」(雅び、宮び)に由来する、天皇の御座所ではなく、皇居がある所である。

から、「大阪都」となれば、必然的に「遷都」を意味することになる。

そうした歴史認識が欠如していることが最大の問題なのである

ただし吉村知事はすこしニュアンスを変えて「副首都」を目指すとも発言している。

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七世紀から八世紀にかけて、大阪の谷町から森ノ宮にかけて、宏大難波宮があった。

しかも戦後に発掘してみれば、難波宮跡地は日本最大規模の皇居だった事実が浮かんだ。

遷都が頻繁に行われた七世紀から八世紀の飛鳥、奈良時代を一覧すると次のようになる。

667 近江大津京(天智天皇)
672 浄御原宮 (天武天皇)
694 藤原京  (持統天皇)
710 平城京  (元明天皇)
784 長岡京  (桓武天皇)
794 平安京  (桓武天皇)

大津に都があったことをすっぽり忘れている向きも多いと思われる

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現在の歴史学では近江大津京と呼んでいる。

近江大津京は天智天皇が即位した場所だが、わずか五年間の首都だった。

遷都理由は白村江の戦い(663年)に敗れたため、天智天皇は、国防上の理由から遷都を決断された。

交通至便で優位な地形の近江大津の地が選ばれた。

この遷都は大化の改新から十八年後のことで、天智天皇六年(667)に、ここで即位されている。

しかし近江大津京は短命に終わった。

最大の理由は九州の大宰府に水城や山城を構築したこと。

これらの造営費用が膨大だったため首都移転は難儀を極めた。

最初から臨時の皇居という印象だった。

そのうえ守旧派(飛鳥派)が反対、妨害があった。

天智天皇崩御のあと、後継の弘文天皇は壬申の乱で、大海皇子(後の天武天皇)に敗れた。

ところで、近江神宮は天智天皇が祭神である。

京阪電鉄の近江神宮駅から七、八分ほど歩くとこんもりとして森があり、その突き当たりの、いくつかの階段を上る。

昭和十五年、近江神宮は皇紀二千六百年に創祀された。

小倉百人一首の第一首は天智天皇、いまでは近江大津宮のことより、カルタ競技の祭壇となった。

日本で最初に時計を取り入れたのも天智天皇だった。

その「遅刻」(水時計)が境内にある。

近年、若い人が参詣にくるのは、漫画「ちはやふる」2500万部の影響だろう。

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ちなみに小倉百人一首の第一番、天地天応の御製は、

あきのたの かりほのいほの とまをあらみ

わがころもでは つゆにぬれつつ

 (秋の田の仮小屋に泊まると、屋根の苫(とま)の目が荒く、

  冷たい夜露が、着物の袖を濡らしてしまった)

壬申の乱で勝利した天武天皇(大海皇子)は飛鳥に戻り、浄御原宮を造営した。

近江京の宮殿の主柱や仏殿、内裏正殿などを移設したため近江大津京は廃都となってしまった。

天武天皇と持統天皇は夫婦である。

この天武天皇と持統天皇の18年間が浄御原宮。

天武天皇の崩御後、持統天皇は飛鳥の近くに藤原京を造営、またも遷都した。

さて難波宮のことである。

歴史教科書には難波京のことを載せていないのである。

長らく「まぼろしの都」と言われたのも、『日本書紀』は難波宮「焼失」と記載しただけだからだ。

「なんば」は難波であり、船場(せんば)、水の都。

堂島、中之島という地名は海上交通のアクセスは至便である。

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つまり、大阪は首都というより商都である。

水運の発達は当然だが、当該地区を治める豪族の顔役がいる。

縄文の大規模集落はまだ発見されないが、神武東征のおり大阪湾からの突入に失敗、熊野路へ迂回した経緯は古事記にも日本書紀にもでてくる。

周囲は縄文時代から開けていたことは確実であり、森ノ宮から縄文時代の土器が見つかっている。

石山本願寺、大阪城の敷地は難波宮の一部ではないか?

戦後、本格的な発掘が始まり、 昭和32年に回廊を発見、天皇宮室と判明した。

いま「難波宮史跡公園」として整備されているが、大極殿基盤と八角殿のレプリカがある。

難波宮跡の北側はNHKや大阪市歴史博物館があって、これらは明らかに難波宮の敷地内であった。

それゆえ難波宮は「まぼろしの首都」ではなかった。

実質として難波宮は大化の改新ののちに孝徳天皇が遷都(652年)している。

この時から元号は「大化」となり、大化の改新の刷新政治は、難波宮が舞台だった。

ただし何回も火災に遭遇して、そのたびに仮御所が建てられ、ついに天武天皇は683年(天武天皇十二年)に副都制の詔をだされた。

すなわち難波宮は副都だったのだ。

だから正式な首都ではなく、教科書は採用しないようだ。

副都は世界史で珍しくなく、清朝では紫禁城に加え、清朝皇帝は夏、承徳に移った。

エカテリーナ女帝はサンクトペテルブルグ郊外に「冬の宮殿」を建設した。

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いずれにしても、現在の行革の一環として提言されている「大阪都」構造にも、知事の言う「福首都」という発想にも、このような史的考察が一片もないのである。

(宮崎正弘の国際情勢解題より)

 

戦後最大級の台風

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 なんだか超スゴい台風みたいですが

  今のところ東京は雨も風もなく

 ただ暑いだけ  (;×_×;;)

 

 

台風10号は8/6未明にかけ、国内で戦後最悪の被害をもたらした昭和34年の伊勢湾台風に匹敵する戦後最大級の勢力に発達する見込みだ。

専門家は海面水温が高い海域を通り、大量の水蒸気を吸い上げたことが原因と分析。

11号以降の台風は日本列島により接近、上陸する恐れがあり、警戒が求められる。

「台風10号は(伊勢湾台風など)

 戦後最大級の台風と比べても遜色ない」

気象庁の中本能久(よしひさ)予報課長はこう警鐘を鳴らす。

気象庁によると、台風10号は南大東島に接近するとみられる8/6午前3時に中心付近の最大風速が54メートル以上の「猛烈な台風」に変わり、中心気圧は915ヘクトパスカルとなる見込み。

930ヘクトパスカル以下の台風の上陸は伊勢湾台風を含め戦後3例しかない。

沖縄や奄美では最大瞬間風速85メートル(時速306キロ)が予想されている。

 

時速306キロって 新幹線の窓が開けば 感じるくらいの風?  ((((;゚д゚))))

 

大阪駅近くで大量の人骨

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江戸には小塚原刑場があり、1651年から1873年(明治6年)まで使用され、合計20万人が処刑されました

単純計算すると年間900人、毎日3人が死刑になりました

掘れば、すさまじい量の人骨が出てくると思われます

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犯罪者は、伝馬町牢屋敷に収容され、お白洲(裁判所、→)で死刑が決まると、小塚原などの刑場で処刑(はりつけ、火あぶり、打ち首獄門など)されます

牢内は牢名主による完全自治制が敷かれていたので、基本的に何が起きても役人は関知しなかった

牢内の人員が増え、狭くなって牢内生活に支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた

規律を乱す者、いびきのうるさい者、差し入れのない者などが、ひそかに殺された

殺人後は「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった

ひどく野蛮のように見えるが、当時の西欧では魔女狩り裁判などで、もっと野蛮だった

権力に逆らったら即死刑、現在の北朝鮮や中国と同じ

当時は10両(現在価値で大雑把に100万円)盗んだら首が飛ぶと言われ、厳罰主義だった

この影響が今に残り、現在の日本は、世界一治安が良いのかもしれない

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▲牢内の様子 左上にいるのが牢名主

新入りの囚人がリンチを受けている

板で叩かれているが、実態はもっと凄惨なものだった

右上にいるのが牢役人で、牢名主の家来たち

左下は差し入れなどがある、特別待遇の客分

何も無い下っ端は右下のように、体を伸ばす自由も無かった

夜もこの姿勢のままで眠った

 

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JR大阪駅北側の「うめきた」2期計画の準備が進んでいる。

2024年夏の街開きを目指す約16㌶の大型再開発事業だ。

写真①

都市公園を中心に医療や健康産業を誘致して最先端のビジネス拠点にするという”未来の健康都市プラン”だが、その足元から200体を超える人骨が出て来たのだからびっくりだ。

300年以上の眠りから覚めた江戸時代の”亡霊たち”。その突如出現した顛末は──。

「うめきた」は旧国鉄梅田貨物駅の跡地約24㌶を新しい街に変える壮大な事業。

東側の1期区域では、13年にグランフロント大阪が完成した。

続きを読む

思い出横丁

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 この横丁には

  「鳥園」という焼鳥屋がありまして

 ときどき行くことがあります

  (^_^;)

 

どんどん街並みが変わるメガシティ東京。

ここにきて、新宿西口も再開発されるとの報道が。

小田急百貨店が建つ駅西口から、駅南口の「新宿ミロード」までの細長い地区が対象となっていて、2029年には地上48階建ての高層ビルに建て替わる予定とか。

計画しているのは東京メトロと小田急電鉄で、現在は、

「近隣住民の方々にご説明し、ご理解をいただいている段階」

 (小田急電鉄)

つまりまだ正式な決定ではないというが、気になるのは再開発地域の先にある「新宿西口思い出横丁」の行方。

通称「しょんべん横丁」として親しまれているこの地域の歴史は、戦後の闇市に遡る。

日本の情緒を安く味わえると、最近は外国人観光客からも人気だ。

新宿大ガード脇の約2千平方メートルの地域に約80軒もの店がひしめき、1999年には横丁の半分近くを焼く火災があるなど、何度も存続が危ぶまれてきた。

ビル化の話も持ち上がり、03年には地権者たちによる「新宿駅西口地区市街地再開発準備組合」も立ち上がって、多くの店が賛成したと言われたが……。

「『組合』も意見がまとまらず頓挫しました。『思い出横丁』の再開発は、

 行政庁および一般企業を含めまして、俎上に載ることはありません。

 以来、再開発の話は皆無となっております」(新宿西口商店街振興組合)

どうやら、しょんべん横丁はこのまま残るようだ。

「あの存在は現代の奇跡」

とは居酒屋関連の著作も多いライターの大竹聡氏。

「闇市的な雰囲気で多数の店が集まる場所は、すでに大阪や名古屋にはなく、長崎の銅座など日本国内でも数カ所だけ。あの地域の空中権はすごい価値ですから、バブルの時代にもビル化などされずよくぞ生き残ってきたものです。権利関係が複雑なのが、かえって幸いしているんですね」

昭和の名残、いつまで。

 

読書 「おかげまいり」と「ええじゃないか」

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おかげまいり」は、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣

数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった

ええじゃないか」は、特に最後の回(慶応3年・1867年)で発生した集団乱舞だが、これは明治元年の前年

著者は1912年生まれの京大出身の歴史学者なのだが、ガチガチのマルクス教信者のようで、階級闘争に結びつかないと価値を認めないようなところがあり、本書が刊行された1968年ころの時代精神(70年安保闘争のころ)が伝わって来る

観光旅行など多くの人には夢のような話だった江戸時代に、伊勢神宮めざして数百万人規模で「民族大移動」をしたという事実に驚く

伊勢神宮の近隣はもとより、遠く九州や東北地方からも、みんな歩いて伊勢をめざした

当時の人口(3000万人くらい)を考えると、長距離を歩ける者の3人に1人くらいが、民族大移動に参加したことになる

60年周期とすると、1867年の次は1927年(昭和2年)で、この時は金融恐慌など社会不安は大きかったが、「おかげまいり」は起きなかった

しかし、少し後に満州事変が起きて日中戦争に突入していくが、このころ日本軍は連戦連勝で、大日本帝国の支配地が広がることに熱狂している国民も少なくなかった

その次は1987年(昭和62年)で、バブルの真っただ中、日本中が狂喜乱舞した時代

さらに次は2047年ですけど、それまで生きてるかな~?

(^_^;)

 

▲伊勢神宮

 

映画「ええじゃないか」

 

▲バブルのころのジュリアナ東京

お姉さんたち 今は還暦くらい?  (^_^;)

 

▲最近の伊勢神宮への集団参詣