13【人生いろいろ】

実物大の動くガンダム

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 横浜に新しい観光名所が
  誕生します  (^_^;)
 
創通とサンライズが設立した一般社団法人「ガンダム GLOBAL CHALLENGE」は1月20日、高さ18メートルの実物大ガンダムを、横浜・山下ふ頭で10月から一般公開すると発表した。
公開期間は約1年間。
国内外のロボット研究者、エンジニア、クリエイターらが設計・検証し、動く仕組みにする計画だ。
10月にオープン予定の施設「GUNDAM FACTORY YOKOHAMA」で展示する予定。
入場チケットは7月から販売する。
この施設は、動くガンダムを間近で見られる「GUNDAM-DOCK」と、動くガンダムの仕組みなどを学べる「GUNDAM-LAB」という2つのエリアで構成される。
入場料とは別途料金がかかる特別観覧スペース「GUNDAM-DOCK TOWER」も設ける。
実物大ガンダムを制作するプロジェクトは2014年にスタート。
「ガンダムの生みの親」として知られる富野由悠季総監督のもと、早稲田大学の橋本周司名誉教授、中京大学工学部のピトヨ・ハルトノ教授など、ロボットの研究者が参加している。
機体の設計は、役割ごとにディレクターが担当。
全体設計・安全設計・メカ設計は、「建機ロボット化」の研究をしてきた石井啓範さんが担っている。
システム設計や制御は、ロボットベンチャー「アスラテック」取締役の吉崎航さんが務める。
空間設計やガンダムを動かす際の演出は、乃村工藝社クリエイティブディレクターの川原正毅さんが担当している。
プロジェクトチームは「ガンダムという海外からも高い注目を集めるコンテンツと日本のものづくり、優れた技術力の融合をライブで体感してほしい」とアピールしている。
 

輪廻転生

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『第三のチンパンジー』など旺盛な著作で知られるジャレド・ダイアモンドが、

「人口減少は日本復活のチャンスだ」

と述べている(『週刊文春』2020年1月2日・9日合併号)。
日本の主流の議論の正反対だから驚く読者が多いかも知れないが、筆者(宮崎正弘)はむしろ賛成で、以前から述べてきた考えに近い。
なぜなら日本はむしろ人口が多すぎるのである。
狭い国土に一億二千万人が暮らせば住居がウサギ小屋になるのも当然であり、生活空間に余裕がなくなる。
ダイアモンドは、第一に人口八千万人が適当としてドイツと同数になり、輸入する資源が減って資源小国という強迫観念が希釈になること、第二に女性の雇用のチャンスが拡がり、第三に雇用高齢化が定着する。第四に外国人労働者をそれほど受け入れないという選択肢が日本にもたらされる。
ゆえに日本にとって人口減少は逆にチャンスだとする。
とはいうものの、近未来の日本社会は「 超高齢社会」から「多死社会」に移行する。
すでに出生者より死者が上回り、人口動態は少子高齢化と同時に大量の死がやってくる時代となる。
団塊の世代が終活期に突入したからだ。
現在進行形の少子高齢化社会で、介護保険が確立された上、介護士が大量に養成された。
そのうえで、「終末ケア」の必要が説かれている。
各地にケアセンターが次々と生まれ、雑誌は相続の特集を出したりしている。
驚くなかれ伝統的な大家族制が消滅し、介護が日本国家の「基幹産業」となった。
ものつくり、匠の日本が基幹産業を変貌させたのだ。
日本経済の絶頂期には考えも及ばなかった、退嬰的な社会に変貌した。
人は人生の満足度を抱きながら安らかに眠るのが理想である。
戦後の死生観は戦前までの伝統的なそれから転倒し、生きることだけが尊重される、不思議な価値観に蔽われている。
生命尊重だけでよいのか、と絶叫して三島由紀夫は自決した。
今後の日本では「看取り」が重視される社会となり、「看取り士」が増えるだろう。
人口動態から推測できることは2015年に毎年150万人、2040年には年間180万人が死ぬ一方で、出生数は2018年に86万人強と、少数核家族化、しかも高齢単身世帯が600万、このうち400万が女性の単身世帯となり、介護認定は2018年に644万人、これを180万人の介護士が支えている。
2025年には253万人の介護士が必要だが、38万人が不足することになるだろうとするシミュレーションが存在する(後述藤和彦論文)。
このような後ろ向きの社会が到来するにあたり、考えるべきは家族制度、冠婚葬祭の在り方、死生観の是正、日本の伝統的哲学の再構築ではないのか。
戦後の日本では、GHQの占領政策の影響が大きく、価値観の転倒がおこり、家族制度がGHQによって破壊された。
結婚の伝統も欧米的な、即物的な儀式に変質し、日本的良さは喪失された。
死生観の激変によって、死=無という考え方が拡がった。
仏教への帰依が希釈化したからだろうが、

「死は無」という誤解だらけのニヒリズム

が蔓延し、人生をいかに活きるかが説かれても、如何に死ぬかは無視されがちだった。
他方、安楽死をもとめてスイスへわたる日本人が静かに増えている

スイスでは安楽死が合法化されている。

「人生において何が本質的に重要なのか、いまの仕事が何かに貢献しているのか」という思考が見失われ、ある種達成感や人生の満足感をもって死を迎えるという人間が少なくなった。
無駄な人生だったとみる、人生に意義を認めない欧州人が増えた。
戦後の実存主義などが好例だが、AIはケアの代替にはなり得ず、看取りが必要なのである。
縄文時代の 遺跡の住居跡を調べると、入り口に甕が埋められている事例が多いという。
この甕は逆さにされ、 底には小さな穴が開けられており、乳幼児や死産児の遺体が納められていた。
死産児の遺骨を玄関の床下や女性用トイレの脇などに埋める風習がごく最近まで日本で見られていた。
「死んだ子供が少しでも早く生まれ変わってくることを願って、遺骸を女性が頻繁に跨ぐところに埋めた」(竹倉史人『輪廻転生』、講談社、2015年)
遺体を埋める前に墓の中に魔除けと「生まれ変わり」を促すとされるベンガラ(酸化鉄) という赤い粉をまいたりしていた(簗瀬均「魂のゆくえ」秋田魁新報社)
また初期の聖書には生まれ変わりの記述が多数存在していた。
こうした輪廻転生の思想が、現代に甦る。
この問題に正面から取り組んだ論文は「多死社会における産業振興のあり方に関する一試案」、藤和彦(経済産業研究所) である(RIETI  Policy Discussion Paper Series・ 2019 年 12 月)
その概要の重要箇所を下記に簡潔に掲げる。
「生まれ変わり」の観念の起源は古い。
インドでは少なくとも過去4000年にわたって宗教的、哲学的発達の最大の源泉の一つになってきた。

人類の精神史の中で輪廻や復活といった「生まれ変わり」の観念が繰り返し生じており、客観的な事実か単なる妄想なのかどうかは別にして、繰り返し出現してくるだけの心理的 な必然性があったことだけは間違いない。

2006年から2008年にかけてギャラップ社が143か国を対象として行った宗教 に関する国際調査では、日本は世界で8番目に宗教を重視しない国としてランクされてい るが、生まれ変わりを信じている日本人はなんと43%に達したのである。
内訳を見てみ ると、高齢者よりも若年層、男性よりも女性の方が「信じている」比率は高い。
生まれ変わりの主張はあらゆる時代を通じて世界のほぼ全域で発生している。
「生まれ変わり」の死生観は世界中の民俗文化において見られるが、前世の記憶を持って いると称する者の逸話がもとになって発生した可能性がある。
「生まれ変わり」を認めていた西洋古代思想  古代のエジプト人が「あの世とこの世との間に大きな隔たりはない」と考えていたよう に、太古から私たちは死と死後のことを意識してきた。
西洋哲学の出発点と言われるギリシャでは、「生まれ変わり」の観念はオルフェウス教(密儀宗教の一種)から始まったとされ、哲学においても魂や形而上的世界の実在が想定されていた。
古代ギリシャの数学者として知られるピタゴラスは前世の記憶を持ち、「不滅の霊魂」 「霊魂の輪廻転生」「修養による霊魂の浄化」を弟子たちに唱えていた。

 「魂の不死を信じて平然と死ぬことができる心の訓練が、哲学の使命である」

と弟子たち に教えていたソクラテスにとって、自らの死は永遠の生、人間の魂の永続性を象徴するも のであった。
ピタゴラスの世界観を継承したプラトンも、著書「パイドン」「国家」などの中で「死者の魂は一定期間を過ぎると生まれ変わる」と主張している。
古代ギリシャ思想においては、死によって霊魂と肉体は分離し、前者は不滅とされてい た。
例外はソクラテスと問答を行った当時のソフィスト(知恵ある者)たちだった。
彼らは現代人のような唯物論的な考え方を有していた( 樫尾直樹他「人間に魂はあるのか?」国書刊行会、2013年。以上引用止め)

輪廻転生と言えば、三島由紀夫の最後の四部作の主要テーマである

『春の雪』の松枝清顕は『奔馬』で飯沼勳となり、『暁の寺』ではジンジャンン姫に転生していた(らしい)。
最終巻の『天人五衰』の安永透は、輪廻転生とは無縁だったことが示唆されている。
嘗て筆者がローマ憂国忌での講演を依頼されたおり、イタリアの知識人達と懇談の機会があったが、三島『豊饒の海』への最大の関心は輪廻転生だった。
カソリックが強いイタリアのおいてすら、人生の模索の思想に、仏教的東洋的死生観が横たわるのである。
かくして多死社会となる日本で、精神的安らぎの希求や看取るというシステムが、嘗ての大家族制という伝統に近付くことができるか、どうかが今後の論議になるだろう。

「宮崎正弘の国際情勢解題」令和弐年正月元旦年頭随筆より

 

男は弱いよ 金ピカ先生

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派手な格好で羽振りのいいイメージが強かった「金ピカ先生」が孤独死したというニュースは、日本中に衝撃を与えた。
それは、多くの人にとって彼の死に様が他人事に思えぬものだったからに他ならない。

話が嚙み合わない

「ハァ、ハァ、ハァ……早く死にたい」
8月下旬のまだ暑い日、本誌は生前の「金ピカ先生」こと佐藤忠志さん(享年68)を取材し、9月7日号の特集でその変わり果てた姿を伝えていた。
かつて築いた財産をすべて使い果たし、生活保護と、週に2回のデイケアサービスだけを頼りに生きていた佐藤さんの家は電気もガスも止められ、熱気がこもる寝室には、異臭が充満していた。
骨と皮だけのようになった身体にパンツ一枚の姿で、ガラス玉のような両目は、遠くを見つめたまま動かない。
口にするのは近所のコンビニで売られている格安のカップ焼酎と、タバコだけ。息も絶え絶えの様子で焼酎をあおり、ゴホゴホとむせる。
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「山城(新伍)、梅宮(辰夫)、(菅原)文太、あの頃の東映ヤクザ映画は楽しかったですね……」
頭がもうろうとしているのだろう。予備校講師時代の思い出を尋ねても、会話が嚙み合わない。
取材中、佐藤さんの口をつくのは「自分は生きる屍」「何にも関心がない」「早く死にたい」という、絶望に支配された人間の言葉ばかりだった。
そして、この取材からわずか1ヵ月足らずで、佐藤さんは誰にも看取られることなく、たった独りでこの世を去った―。
バブル期に一世を風靡し、最盛期には年間2億円とも言われる収入を得ていた佐藤さんは、なぜこれほどまでにも哀しく、孤独な最期を迎えなければならなかったのか。
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佐藤さんは、’90年代前半にはすでに講師を引退。その後は、知名度を活かしてタレントとして生活していたが、ブームはあっという間に過ぎ去り、収入は講師時代の100分の1以下に。
それでも、かつては毎日のように高級ホテルで食事をし、地方への移動も常にファーストクラスだった佐藤さんの放蕩ぶりは一向に収まらなかった。
「貯金はあっという間に減っていきましたが、決定打になったのは、なけなしのおカネを元手に出馬した’01年の参議院選挙でした。自民党から出馬したものの、落選してしまった」(佐藤さんの友人)
穴埋めのため、予備校講師時代に建てた「豪邸」も売り払った佐藤さんが、中野区内にある実家に妻と共に越してきたのは、いまから5年ほど前のことだった。
「もともと、あの家には佐藤さんの母親が住んでいました。お母さんはハデな人で、ヒラヒラのフリル傘を片手に真っ赤な帽子をかぶったりしていて、佐藤さんの独特のファッションセンスは母譲りだったと思います。
そんな母親が亡くなって間もなく、佐藤さんと奥様が引っ越してきた。あの頃はまだ元気で、『いくらの時計を買った』とか『収入がウン千万円あった』とか、昔の自慢話をよくしていました。でも奥様は常識人でね。いつも腰が低い人だった」(近隣住民)

そして妻は去った…

金遣いの荒さは「金ピカ先生」の異名どおりだった佐藤さんだが、人柄については見た目とは裏腹に穏やかで、人を怒鳴るようなことは一切なかったという。
そして、周囲の人が口をそろえるのは、「人一倍仲の良い夫婦だった」ということだ。
「先生は温泉が大好きで、羽振りの良かった時代はいつも夫婦で伊豆や箱根に出かけていた。そういう旅行も、外食するときも、先生は絶対に奥さんを連れていました。
奥さんはお嬢様育ちで、実家は相撲部屋の後援会会長をしていたほど。先生とは対照的に常に地味な服装で、とても出来た人でした。旦那さんを常に立てていて『うちの佐藤がすみません』というのが口癖でした。
先生はおカネの管理がまったくできない人なので、カネ回りの世話は奥さんがぜんぶやってあげていました。誰かとご飯を食べるときはいつも先生の奢りなので、奥さんの鞄には100万円の束が入っていた。
先生が、講師を辞めてあまりおカネがなくなってからも、奥さんが先生のもとを離れることはありませんでした。10年ほど前に先生が脳梗塞で倒れた直後も、奥様は献身的に世話をして、きっちり断酒を成功させていました」(前出・佐藤さんの友人)
仕事以外のことはまるで何もできない夫と、半歩後ろを歩きながら身の回りを甲斐甲斐しく世話する妻。
典型的な「昭和のおしどり夫婦」の関係に亀裂が走ったのは、実家に移ってから2年ほどが経ち、夫婦の生活が本格的に困窮してからのことだった。
相変わらず近所の飲食店に行くにもタクシーを利用するような佐藤さんの暮らしぶりに妻は呆れ果て、二人の間には喧嘩が絶えなくなった。
ついには「死ぬまで住み続けていい」という条件のもと、知人に自宅を売り払い、そのカネで高級外車を買おうとした佐藤さんに妻の怒りは限界に達した。’17年のある日、突然家を出ていってしまう。
そこから、佐藤さんは死に至る孤独な日々を過ごすことになる。
〈もう女房に未練ないし〉
〈(独りで生きる余生は)バラ色ですよ、ずっと〉
昨年の夏に『スポーツ報知』の取材を受けた際には、以前の威勢の良さがまだ残っていた。だが、それは精一杯の強がりだった。
プライドと見栄の塊だった佐藤さんは、実入りが減って人に奢ることができなくなってからは、次第に友人たちとも没交渉になっていったという。きっと、「みっともない姿は見せられない」と思っていたのだろう。
そんな佐藤さんにとって、妻はありのままの姿をさらけ出すことのできる、唯一の相手だった。
その「たった一人」を失った瞬間から、佐藤さんの本当の苦しみが始まった。
誰もいない部屋で、話し相手もなくタバコをくゆらせながらぼんやりと過ごす毎日。
「過去の人」になっても、カネがなくなっても、病気になっても、多くの人が離れていっても、それでもそばにいてくれた妻が、ついにいなくなってしまった。
〈自分の人生には、もうなにひとつとして残されていない〉
決して取り返すことのできない過ちに気づいたとき、佐藤さんが感じた絶望はいかばかりだっただろうか。

「全部オレが悪い」

気づけば、すっかり自暴自棄になり、心の痛みを少しでも紛らわそうと、朝から晩まで大量の酒をあおるようになった。
そして、昨年の秋には、デイケアサービスがないと生活できないところまで体調が悪化した。
デイケア施設の関係者が言う。
「地域包括支援センターの職員が様子を見に行った結果、『もう一人では生きられないから、サービスが入ったほうがいい』という判断になりました。
担当のヘルパーが佐藤さんの家に初めて足を踏み入れたとき、中は荒れ放題で、床のそこかしこに落ちたゴミが異様な臭いを放っていた。
できる限りのことはしようと思いましたが、当のご本人が生きる意欲をまったく持てなかった。当初はコンビニでサンドイッチなどを買っていましたが、次第に食べることすらやめてしまった」
電気もガスもつかない真っ暗な家のなかで、服をまとわぬ佐藤さんはじっと虚空を見つめ、微動だにしなかった。
このときの様子を「恐らく、完全な『自己放任』状態だったのではないか」と語るのは、遺品整理業「あんしんネット」の石見良教氏だ。
「『自己放任』は社会から孤立していた人が、死別や離婚で唯一の心の拠りどころだった人を失ったり、病気などの負の出来事に見舞われたりして、孤独に耐えられずに自暴自棄になってしまうことです。
とりわけ、佐藤さんのように子供のいない高齢男性はその傾向がより顕著になる。普通、人間は生ゴミの臭いに耐えられず片付けたくなるものですが、毎日ボーッと過ごしているうちに感覚が麻痺して、それが異常であることにすら気づかなくなってしまう」
すでにほとんど会話することさえままならなくなっていた佐藤さんだが、時折、妻への気持ちをこぼしていたという。
「よく言っていたのは『こうなったのも全部オレが悪いから仕方ないよな』と。もとから、奥さんの悪口を言うのは聞いたことがありませんでした。
自分が悪かったというのは重々わかっていたと思います。ごくたまに奥様が訪ねてくることがあったようで、そのときは嬉しそうに話していました」(前出・施設関係者)

男は弱い

羽振りが良かった時代を忘れられず放蕩を続け、すべてを頼り切っていた妻に愛想を尽かされる。
佐藤さんの辿った末路を、「自業自得」の一言で片付けるのは簡単だ。
しかし、どんな形にせよ、すべての夫婦に離別のときはやってくる。佐藤さんが襲われた絶望は、誰にとっても決して他人事ではない。
「連れ合いと離れた後、女性は『独りで生きなきゃ』と覚悟を決めて強くなる場合も多いのですが、男性の場合は、一気に弱ってしまう人が少なくありません。
近所付き合いや友人付き合いの多い女性にとって、夫は『たくさんある人間関係の一つ』に過ぎませんが、定年後に仕事関係のお付き合いがなくなった男性にとっては、奥さんとの関係は唯一無二のもの。
死別や離婚でそれが失われると、どうしていいかわからず、ただ呆然と立ち尽くしてしまうのです」(ケアマネージャーオフィス「ぽけっと」代表の上田浩美氏)
自分では何もできない男が独りになったときに襲われる、どうしようもない孤独。
人知れず最期を迎えた瞬間、佐藤さんがせめて絶望から解放されたことを願ってやまない。

「週刊現代」2019年10月12・19日合併号より

 

年には勝てない

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 後継に道を譲らず ひたすらポストにしがみつく
  醜い認知症ボケ老人もいるようですが
 こうゆう清々しい引退劇も あるんですね~  (^_^;)
 
山梨県甲州市の田辺篤市長(74)が27日、市議会議長に辞表を提出し、受理された。
物忘れなどを理由に挙げ、来年1月末で辞職する。
市長選は2月上旬に実施される公算が大きい。
辞表提出後に記者会見し、

「年を取りしんどくなった。年には勝てない」

と語った。
特定の病気は否定したが、疲れや物忘れが目立つようになったと説明。

「30分前の話を忘れることもあり、妻から気をつけた方がよいと言われるようになった」

と明かした。
決断時期については、

「選挙のこともあり、4月までには新しい市長が誕生していないと(いけない)」

と話し、年度の区切りを考慮したという。
新年度予算については「骨格予算」との方針を示した。
現在4期目で、任期を2年近く残した辞職になる。

「自分ではそれなりのことはやってきた」

と市政運営を振り返った。後継については

「やりたい人が何人もいるので、あえて言いません」

と明言しなかった。
田辺氏は県議や旧塩山市長を経て、2005年の合併で誕生した甲州市の市長選で当選。
17年11月に4選された。
 

愛子さま18歳

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 愛子さまは偏差値72の超優等生だそうです
   秋篠宮家がトラブル続きなので
 愛子天皇待望論が高まっています  (^_^;)
 
天皇、皇后両陛下の長女、敬宮(としのみや)愛子さまは12月1日、18歳の誕生日を迎えられた。
4月に学習院女子高等科3年生となり、勉学に励む一方、高校生活最後となる運動会や文化祭などの行事で活躍するなど、充実した日々を過ごされている。
天皇陛下のご即位に伴う一連の関連儀式も逐次テレビなどで見守り、関心を持たれているという。
11月上旬に開催された文化祭では、3年生有志のグループでダンス公演にご出場。
洋楽やJ-POPなどの音楽に合わせて軽快なダンスを披露したほか、美化委員としてごみの分別作業にも取り組まれた。
一連の即位関連儀式では、早朝から深夜に及ぶ両陛下のご発着を赤坂御所で欠かさず見送り、出迎えられた。
10、11月に行われた「即位の礼」の中心儀式「即位礼正殿(せいでん)の儀」や「祝賀御列(おんれつ)の儀」では、皇室の伝統や国民の祝福の様子などを伝える報道を熱心にご覧に。
8月15日の終戦の日には、両陛下が初めて臨席された全国戦没者追悼式の様子をテレビで見ながら黙とうされた。
両陛下とともに訪れた静養先の栃木県那須町では8月、駅頭で小学生や高校生に積極的に声をかけられる場面も。
陛下と長年親交のある英国のアン王女が10月、赤坂御所を訪れた際に同席するなど、海外王族と英語で交流する機会も持たれた。
 

雅子さまと黒田清子さん

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 世間的に言えば「嫁と小姑」。清子さんは生まれてからずっと皇室育ち、雅子さまはアメリカ育ちで、バリバリの元キャリアウーマン。ほとんど水と油。皇室の方々だって人間ですから、いろいろあったのかも  (^_^;)
 
11月22、23日と、天皇皇后両陛下は即位に関する一連の儀式を終えたことを伊勢神宮に奉告する「親謁の儀」に臨まれた。
この重要な皇室の行事で、両陛下とともに大役を務めたのが、天皇陛下の妹で伊勢神宮祭主の黒田清子さんだった。
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伊勢神宮を長年取材してきた文筆家の千種清美さんは、親謁の儀に臨んだ清子さんの様子についてこう語る。

「祭主さまは両陛下より早く伊勢にいらっしゃっていました。両陛下が神宮に到着された21日の夜は、両陛下がお泊まりになった内宮の行在所で大宮司、小宮司とともにお迎えになりました。内宮ご参拝後には、両陛下と食事をされたかもしれません」

前出の皇室担当記者は、21日の夜に注目する。

「ご一緒にひとときを過ごされた雅子さまと清子さんにとっては、いわば“和解の夜”になったのではないでしょうか。雅子さまが療養に入られる’03年12月以前から、関係者の間ではお二人の“不和”が囁かれていましたから」

皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんもこう話す。

「天皇家に入った“嫁”である雅子さまには、公務でご多忙だった美智子さまに代わり、“小姑”である清子さんが折に触れ、皇室のしきたりや所作などをアドバイスしていたそうです。つまり雅子さまにとって清子さんは恩人ともいえるのですが、あるときを境に円滑なコミュニケーションがなくなってしまったと聞きました」

陛下と雅子さまのご結婚直前だった’93年4月、清子さんは24歳の誕生日に際しての文書回答で、雅子さまについてこう記していた。

《まだゆっくりとお話をする機会はございませんが、自分をしっかりと持っていらっしゃり、ユーモアのある楽しい方のように拝見しております》

義理の姉がやってくることを楽しみにする気持ちが伝わってくる。
ところが雅子さまが療養に入られて以降2005年頃から、雅子さまと清子さんの不和を象徴するような“事件”が次々と報道された。

「山階鳥類研究所に勤務し、バードバンダー(鳥類標識調査員)の資格も持つ清子さんは、研究のために赤坂御用地でカワセミの調査をしていました。早朝からの調査なので、何度か天皇陛下と雅子さまが住む赤坂東宮御所(当時)に泊まらせてもらっていたそうですが、あるときから宿泊の許可が下りなくなったという話を耳にしたことがあります」(前出・渡邉さん)

『週刊文春』(’05年12月29日号)によると、その後、清子さんは秋篠宮邸への宿泊を希望し、「いつでもどうぞ」と歓迎してくれた紀子さまと接近していったという。
また、翌年の『週刊ポスト』(’06年3月3日号)にはこんな記事が載った。
事件が起こったのは両陛下のご結婚3年目の’96年だという。
美智子さまと清子さんが御所でお菓子作りをされたとき、紀子さまは「ご一緒に」と呼ばれたのだが、雅子さまにはお声がかからなかったというのだ。

「チーズケーキ作りがお得意の雅子さまをお呼びにならないのは、いかにも不自然という声も上がりました」(宮内庁関係者)

20年以上も前から、雅子さまと清子さんの間には“緊張関係”があったのかもしれない。
清子さんが伊勢神宮の祭主に就任したのは’17年のこと。“退位特例法”が国会で可決された直後のことだった。

「当時は、次の皇后となられる雅子さまがご公務、特に祭祀へのご出席が難しく、御代替わりへの不安が大きかったのです。伊勢神宮祭主となれば、少なくとも年間30日は伊勢に滞在する必要があり、夫の黒田さんにも負担を強いることになります。それでも清子さんが引き受けたのは、皇室の外から新天皇を支えてほしいという美智子さまの強い願いがあったからなのです」(皇室ジャーナリスト)

一方、今年5月に皇后となられた雅子さまは、5月8日の「期日奉告の儀」、10月22日の「即位礼正殿の儀」、11月14日からの「大嘗宮の儀」、そして、今回の「親謁の儀」と、陛下の即位に関連した大きな宮中行事すべてに出席されている。

「御代替わり後、雅子さまは素晴らしい活躍をされています。目を見張るほどのご回復ぶりといっても過言ではないでしょう。皇室への思いの強さは、雅子さまも清子さんも同じです。宮中祭祀にも真摯に取り組む雅子さまのお姿が、皇室の祭祀を担う清子さんの心を動かしたのでしょう。長年のわだかまりは氷解して、お二人の間に“新しい絆”が生まれたのではないでしょうか」(皇室担当記者)

 

開成高校

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もし一流高校「男子御三家」が、プラモデルを組み立てると、

麻布生……組立説明書は無視、感覚だけで独創的かつ味のある逸品を製作する。

開成生……組立説明書を一言一句しっかり読み込み、精巧で完璧な作品を製作する。

武蔵生……組立の途中で各パーツにのめりこんでしまい、なかなか作品が完成しない。

今回は「開成」を取り上げたい。

東大ナンバーワンの座に38年君臨しつづける開成

開成といえば何といっても東京大学合格者数ナンバーワンを誇ることで全国的に名を馳せ、進学校の頂点に燦然と輝く学校だ。
この栄誉は近年だけのことではなく、1982年以来、実に38年に渡ってナンバーワンの座に君臨するというのだから凄い。
2019年の東大合格186名(浪人を含む)。
なお、第2位は筑波大学駒場が120名である。
前回紹介した麻布が都心の一等地、高級住宅地の中に位置するのとは対照的に、開成は下町情緒漂う場所に存在している。
学校所在地は荒川区西日暮里4丁目。

開成卒業生同士のあいさつは「何組?」

わたしの経営する中学受験専門塾で開成出身の講師がいる。
あるとき、生徒の父親が開成出身だと判明した。そのとき、ロビーで二人のはしゃいだような声が講師室まで響いてきた。

「え!? お父様は何組ですか? わたしは紫組だったのですが」

「わたしは緑組だったのですよ!」

「そうなんですねえ!」

そんなふうに盛り上がっている。
ひとりの卒業生が「色」の意味を教えてくれた。

「運動会本番は8色分の桟敷があって、そこに並んで応援するのです。組ごとに色が決められています。1組が紫、2組が白、3組が青、4組が緑、5組が橙、6組が黄、7組が赤、8組が黒です」


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壇蜜さん結婚!

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 壇密先生の保健体育の授業
  どんなこと教えてるんだろ?  (^_^;)
 
タレントの壇蜜(38)が、『東京都北区赤羽』『ウヒョッ!東京都北区赤羽』などで知られる漫画家・清野とおるさん(39)と結婚することが21日、スポーツ報知の取材で分かった。
「いい夫婦の日」の11月22日に婚姻届を提出した。
 
テレビ局関係者によると、2人は17年3月に放送されたTBS系『櫻井・有吉THE夜会』での共演をきっかけに交際をスタート。
 
壇蜜(だん・みつ)
本名・齋藤支靜加(さいとう・しずか)。
1980年12月3日、秋田県生まれ。38歳。
昭和女子大卒業後に銀座のクラブ、葬儀会社の研修勤務などを経て2009年デビュー。
10年に本名から改名。芸名の壇は仏壇、蜜は供え物を指す。
14歳から始めた日本舞踊は師範の資格を持つ。
レギュラーはNHKラジオ第2「高校講座 保健体育」、文化放送「大竹まことゴールデンラジオ!」水曜パートナー、同「壇蜜の耳蜜」。
身長158センチ。血液型O。
 

沢尻エリカ 逮捕 合成麻薬MDMA所持

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 何もかも恵まれすぎちゃうと
  それを投げ捨ててみたくなる
 という心理はあるかもね  (^_^;)
 
違法薬物(合成麻薬MDMA)を所持していたとして、警視庁組織犯罪対策5課は11月16日の午後1時頃に、麻薬取締法違反の疑いで、女優の沢尻エリカ容疑者を逮捕した。

合成麻薬MDMAは風邪薬のカプセルに入っていて、それが2錠見つかったという。

カプセルには白い粉末が入っていて、このうち1錠を警視庁本部で鑑定したところ、合成麻薬MDMAだと確認された。

警視庁によりますと、合成麻薬MDMAが見つかったのは東京・目黒区の沢尻容疑者の自宅マンションで、沢尻容疑者はこのマンションで母親と2人で暮らしていた。

合成麻薬MDMAの発見は午前8時40分頃のことで、カプセルは棚のアクセサリーケースの中に入っていたといい、逮捕は、このうちの1錠を持っていたという容疑。

沢尻容疑者は

「私のものに間違いありません」

と容疑を認めており、取り調べには素直に応じているという。

警視庁は、沢尻容疑者が合成麻薬MDMAを使用していたかどうかを調べるために簡易鑑定をしましたが、結果については明らかにしていない。

警視庁は自宅の捜索で携帯電話なども押収していて、今後、合成麻薬MDMAの入手ルートなどを詳しく調べることにしています。

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沢尻エリカ容疑者は、父が日本人で母がフランス人のハーフ
小学6年生の時に雑誌モデルとして芸能界デビュー。
2004年、映画「問題のない私たち」(森岡利行監督)、05年、同「パッチギ!」(井筒和幸監督)に出演。同作で各新人賞を総なめにした。
順風満帆に思われたが、07年に主演映画「クローズド・ノート」の舞台あいさつで、司会者の質問に「別に」と答えるなど不機嫌そうに振る舞い、世間やマスコミから猛バッシングを受ける。
09年には所属事務所との専属契約が解消され、10年春まで芸能活動を休止した。
女優復帰作となった12年の映画「ヘルタースケルター」は大ヒットを記録し、日本アカデミー賞・優秀主演女優賞を獲得した。
15年に出演した「新宿スワン」も大ヒット。
映画「ヘルタースケルター」は岡崎京子原作漫画の実写版で、全身整形で美貌を手に入れた主人公がトップスターに登り詰めながらも、薬物依存による精神錯乱で人格が崩壊していく過程を描いた衝撃的な内容だった。
この映画の主人公と沢尻の現実が重なり、同作は大きな話題を呼んだ。
当時、文春報道を受けて、周囲に

「大麻をやめられないのか。このままではまずい」

と問われると、沢尻はこう答えたという。

「やめられない。これが私のライフスタイル」

事務所関係者が話す。

「現事務所の担当者もエリカのクスリについては警戒していて、何度も本人に『大丈夫か?』と確認していた。本人は『大丈夫です』と話していました。付き合いもあるらしく、クラブにはしょっちゅう行っているのは知っていたので、心配していました」

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沢尻エリカ容疑者(33)が逮捕されたことについて、所属事務所のエイベックス・マネジメントが16日夜、ホームページで「沢尻エリカの報道に関しまして」と題したコメントを発表した。

その全文は以下の通り。

関係各位

本日、沢尻エリカが麻薬取締法違反の容疑で逮捕されました。

本件につきまして、現在事実関係を確認しております。

関係各所の皆様、並びにファンの皆様へ、多大なご迷惑とご心配をおかけしておりますことを、深くお詫び申し上げます。

本人の処遇につきましては、捜査の進捗を見守りつつ厳正に対処してまいります。

令和元年11月16日

エイベックス・マネジメント株式会社

沢尻エリカ容疑者は2020年放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信長の正妻・濃姫役で出演が決まっていた。
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大河ドラマでは、現在放送中の「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」に出演していたピエール瀧(52)が麻薬取締法違反の疑いで逮捕されて降板。
瀧は懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。

 

シン・ゴジラ第2形態に似ている魚

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ラブカ

シン・ゴジラの第2形態に似ているということで知名度が向上した感のある深海のサメである。
日本全国、ラブカの標本に触れるのは、ここ(東京海洋大学)くらいではないだろうか。
どうしてもラブカと触れ合いたければ、駿河湾辺りまで出向いて、自分で釣るしかない気がする。
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▲シン・ゴジラの第2形態 通称「蒲田くん

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