上の写真の一番右のおじさんの
首がやたら長いのが気になります
三菱銀行のエラい人らしいです
(^_^;)
2020年は、三菱が創業してから150周年の節目の年に当たる。
創業者であり、初代の社長に就いたのは岩崎彌太郎その人である。
大転換期の日本の世で、岩崎彌太郎は、どのように起業し、発展させたのか。
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岩崎彌太郎(いわさき・やたろう)→
1835~85年(天保5~明治18年)。
三菱の創業者であり、初代社長
幕末から明治維新へ。激動の時代を生き抜き、三菱の礎を築いた。
1835(天保5)年、土佐井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれる。
指がやたら長いのが気になる→
(^_^;)
『岩崎彌太郎傳』によると、幼少期の彌太郎は、
《気性は激しく、負けることが嫌いである。同じ年頃の子どもを集めて大将を気取り、敏捷で頭の回転が早い》(現代語訳)
とある。
今風に言えば“やんちゃ”だったのである。
一方で、学問に興味を持つのも早かった。
「彌太郎は15歳で、伯母の嫁ぎ先である儒学者の岡本寧浦(おかもとねいほ)の塾に入り、懸命に学びます」
と解説するのは、「公益財団法人 三菱経済研究所」の常務理事・村橋俊樹さんである。
54(安政元)年、彌太郎19歳のときにチャンスが巡ってくる。
江戸詰めに決まった儒学者の奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者として、随行が認められたのである。
「その江戸で、岡本寧浦と親交のあった安積艮斎(あさかごんさい)の見山(けんざん)塾に入り、一層、勉学に打ち込みます。ところが、折あしく郷里で父親の彌次郎がトラブルに見舞われ、重傷を負ったという知らせが届きます。彌太郎はやむなく帰郷。江戸遊学は1年足らずで終わりました」
この時、彌太郎は江戸から土佐までの約800kmを16日間で走破している。
当時、土佐藩の早馬飛脚でも14日間かかるというから、彌太郎は並外れた健脚の持ち主でもあった。
帰郷後、彌太郎は父親のトラブルの遠因で投獄される。
約7カ月の入獄の末、出獄するが、傷心の日々。
そんな中、土佐藩開明派の指導者・吉田東洋の少林塾に入り、後藤象二郎(しょうじろう)などの知遇を得る。