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古河庭園を歩く

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今日は「都民の日」で、東京都が運営している公園とか動物園が無料公開なので、まだ行ったことのない「古河庭園」へ行ってみました

足尾銅山などを経営していた古河財閥の当主のお屋敷だった場所ですが、戦後の財閥解体でGHQが接収し、さらに国の所有になりました

その後は荒れるままになっていて、幽霊屋敷などと呼ばれていた時期もあったそうですが、1980年ころに東京都に貸し出され、公園として整備されました

もう少しするとバラの花や紅葉が美しいみたいですけど、今日はまだ早かった

(^_^;)

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読書 福岡あるある

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福岡の県民性の本だが、「福岡県民のオキテ」とは違ってストーリー性はなく、254個の福岡ネタが羅列してある

同じ福岡県でも、北九州とかは全く別の文化なので、福岡県と言うより福岡市(博多周辺)の説明が多い

東京だって、下町、山の手、多摩と、かなり文化が異なるもんね

博多周辺には2000年前に「奴国」があって、漢から金印をもらったりしているので、非常に歴史がある

福岡は余りにも住み心地が良いので、他県から転勤してきた人が、そのまま住み着いてしまう率が高いらしい

関西のような東京に対する変な対抗意識や排他性もなく、とても開放的で、海も山も空港も近いので何かと便利

全般に物価が安く、福岡から東京に引っ越すと、物価が余りにも高いので驚くそうだ

男は大学入学や就職で大阪や東京に出ていく人が多いので、やや女性余りらしい

ただし、女性が男を立てるのは見かけだけで、実は女性の尻に敷かれている男が多いそうだ

(^_^;)

 

 

読書 福岡県民のオキテ

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福岡県の県民性や方言、食習慣などを説明したマンガ

東京で働く神奈川県民の男子が、九州支店に出張して、そこで働いていた大野城市出身のカノジョに一目ぼれし、遠距離恋愛の末に結婚するという設定

当然、関東と九州の習慣の違いで盛り上がります

女の子の博多弁は、日本一カワイイと有名です

テレビの漫才はほとんど関西弁だし、そもそも関西人は東京でも関西弁で押し通すから、たいてい分かる

それに比べると博多弁は東京人にはちょっと距離がある

本書の中にある福岡県の難読地名問題、20問くらいあったけど、一つも読めなかった

(^_^;)

 

 

京都のスタバ

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 一見さんお断り

  なんて言われないかなぁ?

 (^_^;)

 

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読書 倭国大乱と吉野ケ里

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福岡と佐賀の間に吉野ケ里遺跡というのがある

1980年代に工業団地の造成で地面を掘り返したら、弥生時代の巨大な遺跡、おそらく当時のクニが現れた

邪馬台国が見つかった!?ということで、当時はマスコミでも大きく取り上げ、毎日1万人以上の見学者が訪れた

周囲に深さ2~3メートルの堀を設けて城のように固めた、日本には珍しい城塞国家で、当時が古代の戦国時代(倭国大乱)であったことが分かる

遺跡内の墓からは、戦闘で傷ついたと思われる遺骨が数多く見つかっている

結局、邪馬台国ではないという結論になったが、50ヘクタールもある巨大遺跡は、今では吉野ケ里遺跡記念公園として整備されている

本書は、1989年に行われた歴史学者6人によるシンポジウムをまとめたもの

一般向けの公開討論なので、学会での討論に比べると穏やかなものだとは思うが、邪馬台国の場所についての議論にも関わるので、かなり熱っぽい議論になっている

(^_^;)

 

 

読書 マンガ古事記

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日本の古代史の原点である古事記を読もうと思うのだが、原文はもとより現代語訳でも読みにくいので、まずマンガから

世界からマンガの国と見られている日本では、多くの古典がマンガ化されている

横山光輝「三国志」全60巻などという超大作もある

古事記は江戸時代初めまでは偽書とされていた

本居宣長が慎重な考証によって偽書ではないことを論証し、日本書紀とならぶ古代史の正典となった

その神話編には荒唐無稽な話が多い

戦前は皇国史観から全て真実として教育したが、戦後はその反動で、すべてウソ話として歴史学会でも無視してきた

しかし高度成長期に日本中で道路やビルを建設し、地面を掘ってみたら古代の遺跡が次々に見つかり、それらが古代神話を微妙に反映していることが明らかになった

そんな訳で、今では何らかの史実を、神話の中に仮託していると考えられている

その「何らかの史実」を、推理小説にように探るのが、古代史最大の楽しみです

(^_^;)

読書 豊後岡城物語

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大分県竹田氏にある豊後岡城の歴史をまとめたマンガ

源義経が活躍したころから明治維新に至る、岡城の歴史をうまくまとめてある

岡城は、難攻不落の名城として有名だったが、明治維新で一時幕府方に付いた藩が明治新政府への恭順を示すために破壊され荒れ果てた

今は石垣だけが残っている

この竹田市で幼少期を過ごした滝廉太郎は、破壊された岡城をイメージして名曲「荒城の月」を作曲した

なお土井晩翠は仙台の青葉城をイメージして作詞したそうなので、九州と東北のコラボですね

(T_T)

 

 

大阪都

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大阪の気取らないところは好きだけど

 「都」と呼ぶには 都会的洗練

少々足りないような気がするんだよね

  (^_^;)

 

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吉村大阪知事(→)は9/23に記者会見を開き、

10/11に住民投票で「大阪都」構想の賛否を問う

とした。

松井市長も、賛同を得られなければ辞任すると宣言した。

行政改革の一環としての二重構造の解消、行政の効率化が目的としていることは賛成である。

問題は「都」という名称なのだ。

「都」とは「みやび」(雅び、宮び)に由来する、天皇の御座所ではなく、皇居がある所である。

から、「大阪都」となれば、必然的に「遷都」を意味することになる。

そうした歴史認識が欠如していることが最大の問題なのである

ただし吉村知事はすこしニュアンスを変えて「副首都」を目指すとも発言している。

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七世紀から八世紀にかけて、大阪の谷町から森ノ宮にかけて、宏大難波宮があった。

しかも戦後に発掘してみれば、難波宮跡地は日本最大規模の皇居だった事実が浮かんだ。

遷都が頻繁に行われた七世紀から八世紀の飛鳥、奈良時代を一覧すると次のようになる。

667 近江大津京(天智天皇)
672 浄御原宮 (天武天皇)
694 藤原京  (持統天皇)
710 平城京  (元明天皇)
784 長岡京  (桓武天皇)
794 平安京  (桓武天皇)

大津に都があったことをすっぽり忘れている向きも多いと思われる

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現在の歴史学では近江大津京と呼んでいる。

近江大津京は天智天皇が即位した場所だが、わずか五年間の首都だった。

遷都理由は白村江の戦い(663年)に敗れたため、天智天皇は、国防上の理由から遷都を決断された。

交通至便で優位な地形の近江大津の地が選ばれた。

この遷都は大化の改新から十八年後のことで、天智天皇六年(667)に、ここで即位されている。

しかし近江大津京は短命に終わった。

最大の理由は九州の大宰府に水城や山城を構築したこと。

これらの造営費用が膨大だったため首都移転は難儀を極めた。

最初から臨時の皇居という印象だった。

そのうえ守旧派(飛鳥派)が反対、妨害があった。

天智天皇崩御のあと、後継の弘文天皇は壬申の乱で、大海皇子(後の天武天皇)に敗れた。

ところで、近江神宮は天智天皇が祭神である。

京阪電鉄の近江神宮駅から七、八分ほど歩くとこんもりとして森があり、その突き当たりの、いくつかの階段を上る。

昭和十五年、近江神宮は皇紀二千六百年に創祀された。

小倉百人一首の第一首は天智天皇、いまでは近江大津宮のことより、カルタ競技の祭壇となった。

日本で最初に時計を取り入れたのも天智天皇だった。

その「遅刻」(水時計)が境内にある。

近年、若い人が参詣にくるのは、漫画「ちはやふる」2500万部の影響だろう。

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ちなみに小倉百人一首の第一番、天地天応の御製は、

あきのたの かりほのいほの とまをあらみ

わがころもでは つゆにぬれつつ

 (秋の田の仮小屋に泊まると、屋根の苫(とま)の目が荒く、

  冷たい夜露が、着物の袖を濡らしてしまった)

壬申の乱で勝利した天武天皇(大海皇子)は飛鳥に戻り、浄御原宮を造営した。

近江京の宮殿の主柱や仏殿、内裏正殿などを移設したため近江大津京は廃都となってしまった。

天武天皇と持統天皇は夫婦である。

この天武天皇と持統天皇の18年間が浄御原宮。

天武天皇の崩御後、持統天皇は飛鳥の近くに藤原京を造営、またも遷都した。

さて難波宮のことである。

歴史教科書には難波京のことを載せていないのである。

長らく「まぼろしの都」と言われたのも、『日本書紀』は難波宮「焼失」と記載しただけだからだ。

「なんば」は難波であり、船場(せんば)、水の都。

堂島、中之島という地名は海上交通のアクセスは至便である。

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つまり、大阪は首都というより商都である。

水運の発達は当然だが、当該地区を治める豪族の顔役がいる。

縄文の大規模集落はまだ発見されないが、神武東征のおり大阪湾からの突入に失敗、熊野路へ迂回した経緯は古事記にも日本書紀にもでてくる。

周囲は縄文時代から開けていたことは確実であり、森ノ宮から縄文時代の土器が見つかっている。

石山本願寺、大阪城の敷地は難波宮の一部ではないか?

戦後、本格的な発掘が始まり、 昭和32年に回廊を発見、天皇宮室と判明した。

いま「難波宮史跡公園」として整備されているが、大極殿基盤と八角殿のレプリカがある。

難波宮跡の北側はNHKや大阪市歴史博物館があって、これらは明らかに難波宮の敷地内であった。

それゆえ難波宮は「まぼろしの首都」ではなかった。

実質として難波宮は大化の改新ののちに孝徳天皇が遷都(652年)している。

この時から元号は「大化」となり、大化の改新の刷新政治は、難波宮が舞台だった。

ただし何回も火災に遭遇して、そのたびに仮御所が建てられ、ついに天武天皇は683年(天武天皇十二年)に副都制の詔をだされた。

すなわち難波宮は副都だったのだ。

だから正式な首都ではなく、教科書は採用しないようだ。

副都は世界史で珍しくなく、清朝では紫禁城に加え、清朝皇帝は夏、承徳に移った。

エカテリーナ女帝はサンクトペテルブルグ郊外に「冬の宮殿」を建設した。

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いずれにしても、現在の行革の一環として提言されている「大阪都」構造にも、知事の言う「福首都」という発想にも、このような史的考察が一片もないのである。

(宮崎正弘の国際情勢解題より)