発見当時は 卑弥呼のいた邪馬台国か!
と大騒ぎになった吉野ヶ里遺跡
歴史オタクには たまらない魅力です
(^_^;)
吉野ヶ里遺跡、1月〜2月限定で本物の青銅器作れるから超オススメ…
なんなら来年も行きたい…
鏡は超磨いたら写真(↓)みたいにピカピカになるよ…
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著者セネカは、1世紀に生きたローマ帝国の政治家で、ストア哲学を代表する人物
人生は短いのではなく、我々が雑用で人生を浪費しているのだと説いて、「多忙なる怠惰」を戒めている
「明日死ぬつもりで今日を生きよ」というのは、ガンジーの言葉にもあるが、哲学の一つの到達点だろう
表題作のほかに「心の平静について」「幸福な人生について」が収められている
禁欲主義のストア派も、快楽主義のエピクロス派も、最終的に目指すところは、この「心の平静」というところに落ち着いているのが面白い
当時のギリシャ・ローマの時代精神を感じるし、時代を超えた普遍性をも感じる
本書を最初に読んだのは今から四半世紀前で、その後も折に触れて読み返し、今また読み直している
(^_^;)
幸田露伴というと、尾崎紅葉とならぶ明治の文豪というイメージが強いけど、こんな成功哲学のような本も書いてるんですね
とにかく徹頭徹尾、努力の大切さを説いている
江戸時代の「殿様の子は殿様、足軽の子は足軽」という封建制度の呪縛から解き放された日本人の、努力して能力を発揮すれば上昇できるという明治の時代精神が感じられる
現在の日本は成熟した先進国なので、ちょっとシニカルな時代精神もあって、真正面から努力を礼賛するのを恥ずかしく思うような雰囲気もあるが、本書の努力論は清々しいほど単刀直入に、努力することを勧めている
原文は明治時代らしく、漢語が多用されていて読みにくいので、現代日本語に「翻訳」されていて、非常に読みやすくなっている
(^_^;)
すべてが順調すぎて
気味が悪いくらいです
日本の宇宙技術が
世界的な偉業を成し遂げました
(^_^;)
永井荷風の全集は、かなり以前にヤフー・オークションで、古本を非常に安く買った
全30巻もある大全集なので、とても一時に読めるものではなく、気が向いたときに気が向いた作品を拾い読みしている状況で、まだ未読部分が多い
荷風と言えば「断腸亭日乗」(だんちょうていにちじょう)が有名で、荷風数え39歳から亡くなる直前まで書き続けた日記
全集の第21巻から第26巻までが日乗にあてられている
近現代日本の日記文学として最高峰と言われている
日乗を始めた直後に、麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)に「偏奇館」(ぺんきかん)という洋館を建て、自由気ままに一人暮らしの自由を楽しんだ
私が麻布に住もうと思ったのは、これの影響が大きい
以前に「濹東綺譚」(ぼくとうきたん)という映画がヒットしたが、その中には偏奇館でのエピソードが種々盛り込まれている
日乗を時々紐解いて、現在の私と同じころの年齢に、荷風が何を考え、何をしていたかを読むのは、とても楽しい
と言っても、荷風の晩年は第二次大戦と重なり、世の中の雰囲気は暗く陰鬱だ
それでも、文人である荷風にとって書斎の中は別世界で、優雅な精神世界に暮らしつつ、女遊びにも余念がなかった(荷風は金持ちで女好きだった)
ちなみに、映画「濹東綺譚」の荷風役は津川雅彦
実にハマリ役で、スケベなインテリ中年を演じさせたら、この人の右に出る者はいない
秋吉久美子と共演した映画「ひとひらの雪」(→、渡辺淳一原作)も良かったなぁ
荷風数え67歳、昭和20年3月9日の東京大空襲で偏奇館は焼亡、書斎も蔵書も灰燼に帰し、荷風は日乗をカバンに収めて、火の中を逃げ回る
空襲を生き延びた荷風は、79歳まで生きて日乗を書き続けたので、まだ当分は楽しめそうだ
(^_^;)
「断腸亭日乗」昭和20年3月9日
著者である渡部昇一氏は、昭和5年(1930)生まれで、この本は著者85~86歳のころに書かれた
3年前に86歳で亡くなられているから、その直前に書かれた本ということになる
著者が40年前に著した「知的生活の方法」は当時の大ベストセラーになり、私も大学生のころに読んで、人生が変わるような決定的影響を受けた
すっかりお気に入りの著者の一人になり、いま手元にはその著書が30冊近くある
まだ未読もあるが、少なくとも十数冊は読んでおり、これまでの人生の折々で、貴重な刺激を受けてきた
そんな渡部昇一氏が、85歳という高齢になるということはどういうことなのか、自らの実体験として率直に語っている
若い頃に「知的生活の方法」を、興奮を覚えながら読んだ時の気持ちが蘇って来るようで、とても懐かしかった
歯に衣着せぬ保守系論客だったので、左翼系文化人からの非難も多かったが、そんなイデオロギーの違いなどを超えた、一人の人間として素晴らしい生き方をした人だったと思う
(^_^;)
つげ義春は大好きな漫画家の一人で、彼の作品はほとんど、何度も読んだ
そのつげ義春の弟が、本書の作者のつげ忠男
その作品選集10冊を、一気に読んだ
つげ忠男アウトロー選集1~どぶ街~
つげ忠男アウトロー選集2~無頼の街~
つげ忠男アウトロー選集3~無頼平野~
つげ忠男アウトロー選集4~狼の伝説~
つげ忠男アウトロー選集5~流れ者たち~
つげ忠男昭和選集1~きなこ屋のばあさん~
つげ忠男昭和選集2~雨季~
つげ忠男昭和選集3~夜よゆるやかに~
つげ忠男昭和選集4~遠い夏の風景~
つげ忠男昭和選集5~ある予感~
絵のタッチは兄義春と似ているが、雰囲気は兄より暗く鬱屈して乾いている
忠男は一時、血液銀行で働き、その経験が作品の中に何度も登場する
血液銀行は、今は無くなったが、「売血所」とも呼ばれ、輸血用や血液製剤の原料として血液を買い取る場所で、社会の底辺の人間がその日の食費やギャンブル代のために、自分の血液を売りに集まった
兄義春(←、左)も相当に暗いのだが、そこにはある種の温かみもある
弟忠男(←、右)はそれよるはるかに暗く、冷たく、乾いていて、何とも救いが無い雰囲気が漂っている
第二次大戦の敗戦からすぐというこの時代の日本は、社会全体が暗くて貧しかったし、それはこの選集の中にも濃厚に表現されている
兄弟が育ったのは、昭和20年代、高度成長前の貧しい時代の東京下町、そのまた特に貧しいエリア
将来に希望を持てない鬱屈した時代精神が感じられる
つげ義春のマンガにも出てくるが、この兄弟の父親は早くに亡くなっている
母親の再婚相手である病気がちの義父は残酷な性格の男で、つげ兄弟はひどい児童虐待を受けて育った
正式な美術教育はおろか、家庭の貧しさから義務教育にすら満足に通えなかった兄弟が、二人ともプロの漫画家になっているのは、まさに兄弟共通の才能の成せるところなのだろう
今回も一気に10冊、まったく退屈せずに読めたということは、漫画家としての非凡な才能を感じる
特にアウトロー選集は、社会の掃きだめのような貧しくて暗い街が主な背景になっていて、日常的に暴力と退廃と背徳が横行するハードボイルド的な作品集
全体に、夢と現実が織り交ざったようなシュールな話が多い
兄つげ義春は、睡眠中にみた夢を漫画化したが、その影響は弟忠男と蛭子能収に及んでいる
(^_^;)
小室問題で秋篠宮家が国民からトコトン嫌われて、愛子さまへの女帝待望論が高まっています
女性天皇というと推古天皇(在位593~628年)を思い出しますが、最後の女性天皇は後桜町天皇(在位 1762~1771年)です
永い皇室の歴史から見れば割と最近です
(^_^;)
12月1日、天皇皇后両陛下の長女・愛子さまは19歳の誕生日を迎えられ、桜色のボウタイブラウスに、控えめなワインレッドのハイウエストワイドパンツをお召しになったご近影が公開された。
10月24日、今年4月に入学された学習院大学に初めて通学された際の装いも深い印象を残している。
愛子さまは、ネイビーのジャケットにオフホワイトのトップスを合わせられ、グレーのスカートとブラックのパンプスをお召しになっていた。
水色が織り込まれたグレンチェックのAラインスカートがとても素敵で、若々しい装いだった。
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後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)第117代天皇
生誕1740年9月23日〈元文5年8月3日〉~ 崩御1813年12月24日〈文化10年閏11月2日〉
在位1762年9月15日〈宝暦12年7月27日〉~ 1771年1月9日〈明和7年11月24日〉
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上の写真の一番右のおじさんの
首がやたら長いのが気になります
三菱銀行のエラい人らしいです
(^_^;)
2020年は、三菱が創業してから150周年の節目の年に当たる。
創業者であり、初代の社長に就いたのは岩崎彌太郎その人である。
大転換期の日本の世で、岩崎彌太郎は、どのように起業し、発展させたのか。
* * * * * * *
岩崎彌太郎(いわさき・やたろう)→
1835~85年(天保5~明治18年)。
三菱の創業者であり、初代社長
幕末から明治維新へ。激動の時代を生き抜き、三菱の礎を築いた。
1835(天保5)年、土佐井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれる。
指がやたら長いのが気になる→
(^_^;)
『岩崎彌太郎傳』によると、幼少期の彌太郎は、
《気性は激しく、負けることが嫌いである。同じ年頃の子どもを集めて大将を気取り、敏捷で頭の回転が早い》(現代語訳)
とある。
今風に言えば“やんちゃ”だったのである。
一方で、学問に興味を持つのも早かった。
「彌太郎は15歳で、伯母の嫁ぎ先である儒学者の岡本寧浦(おかもとねいほ)の塾に入り、懸命に学びます」
と解説するのは、「公益財団法人 三菱経済研究所」の常務理事・村橋俊樹さんである。
54(安政元)年、彌太郎19歳のときにチャンスが巡ってくる。
江戸詰めに決まった儒学者の奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者として、随行が認められたのである。
「その江戸で、岡本寧浦と親交のあった安積艮斎(あさかごんさい)の見山(けんざん)塾に入り、一層、勉学に打ち込みます。ところが、折あしく郷里で父親の彌次郎がトラブルに見舞われ、重傷を負ったという知らせが届きます。彌太郎はやむなく帰郷。江戸遊学は1年足らずで終わりました」
この時、彌太郎は江戸から土佐までの約800kmを16日間で走破している。
当時、土佐藩の早馬飛脚でも14日間かかるというから、彌太郎は並外れた健脚の持ち主でもあった。
帰郷後、彌太郎は父親のトラブルの遠因で投獄される。
約7カ月の入獄の末、出獄するが、傷心の日々。
そんな中、土佐藩開明派の指導者・吉田東洋の少林塾に入り、後藤象二郎(しょうじろう)などの知遇を得る。
ネコは「カワイイ」を武器に
人間を奴隷化することに
成功しました
(^_^;)
ネコは見た目や動きだけでなく「声」もチャームポイントのひとつ。
この鳴き声はネコ同士のコミュニケーションにはあまり使われていません。
ネコは人間のためだけに、特別な鳴き声をあげています。
その理由について、動物の行動に関する専門家であるジョン・ライト氏が解説しています。
Why do cats meow? | Live Science
https://www.livescience.com/why-cats-meow.html
子ネコは母親の注意を引くために鳴き声をあげますが、大人のネコ同士はコミュニケーションをとるために鳴き声を使うことは少ないそうです。
ネコが人間相手にだけニャーと鳴く理由について、専門家であるライト氏は「人間の家畜となったことが原因」と説明しています。
過去9000年間に存在した200匹以上のネコのDNA調査では、「人間と共に暮らすネコ」が初めて誕生したのは紀元前8000年頃の肥沃な三日月地帯(→)。
肥沃な三日月地帯は人類が初めて農耕を行った地域。
農耕によって得られた穀物をネズミが食べるので、これを駆除したいという必要が生じました。
ネコはネズミ除けになるので、人間とネコの互恵関係が結ばれた結果、自然と「ネコの家畜化」が進んだと結論付けています。
このように家畜化される以前のネコは、野生の中で単独で暮らす生き物で、同種とめったに出会うことはなかったと考えられています。
そのため、当時のネコはお互いに出会った状態でしか使えない「鳴き声」よりも、お互いに出会うことなく使える「マーキング」というコミュニケーション手段を主に使っていたとのこと。
現代のネコのコミュニケーションにおいても、体をスリスリしたり排尿したりして匂いを残すマーキングが主要な地位を占めていいます。
ネコ同士では、嗅覚を使ったほうが効率的なので、声を使う理由が存在しません。
しかし、人間はネコほど嗅覚が発達していません。
こうしたことから、ネコは人間相手には鳴き声を使ったほうが、エサなどの望むモノが得られる可能性が高いと学習したとライト氏は語っています。
ネコ同士→匂いでコミュニケーション
相手が人間→鳴き声でコミュニケーション
さらに、人間のペットとして飼われるネコは、人間と暮らすうちに「人間に対して鳴き声をあげる」という行為を覚えるという研究結果も2011年に発表されています。
この研究は野良ネコと飼いネコの鳴き声について調査することで、
野良ネコは「人間や人形、犬などに対して無差別にうなり声をあげる」
飼いネコは「人間相手の場合でしか鳴き声をあげず、人間相手の場合はうなり声ではなくニャーと鳴く上、鳴く頻度も高い」
ことを確認し、「人間と暮らすことで、鳴き声で人間の注意を引くことを学習している可能性がある」と結論付けています。