約40匹の猫がすみついている小屋から1匹の首にひもをくくりつけ連れ去ったとして、三重県警は1日、同県桑名市多度町戸津、無職鮫島勝利容疑者(54)を窃盗の疑いで逮捕し、発表した。
鮫島勝利は「猫が好きで連れてきた」と容疑を認めているという。
鈴鹿署によると、鮫島勝利は3月16日午後3時ごろ、30代の女性が三重県鈴鹿市内の小屋で世話をする猫を盗んだ疑いがある。
自宅には別の猫が1匹いたが、この猫はおらず、鮫島勝利は「なつかなかったので逃がした」と話しているという。
監視カメラには、鮫島勝利が猫を引きずって連れ去る様子が映っており、動物愛護活動を展開するNPO法人が署に相談していた。
13【人生いろいろ】
猫城主
困ったときのネコ頼み!
お客さんが減ってしまったら
おにゃんこ様にすがりましょう (^_^;)
「天空の山城」として人気がある岡山県高梁市の備中松山城で、「猫城主」が入城者をもてなしている。
その名は「さんじゅーろー」。
昨年7月の西日本豪雨後にすみついた。
持ち前の人懐っこさは、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などで話題を呼び、豪雨で落ち込んだ観光客数はV字回復。
文字通り、「招き猫」となり、同市観光協会は「さんじゅーろーで、町全体を盛り上げたい」と意気込んでいる。
白茶の雄猫で、推定3~4歳。
昨年7月21日、管理人の本原亮一さんが城内の三の丸をうろついているのを見つけた。
「やせ細り、捨て猫かと思った」と、数日間様子を見ていたが、餌をやると、観光客と一緒に本丸にも姿を現すようになった。
誰に触られても怒らず、のどを鳴らしながら愛嬌を振りまく姿が評判になり、クチコミやSNSなどで広がった。
同協会は「城のPRに」と備中松山藩出身で新撰組の隊長「谷三十郎」にちなんで「さんじゅーろー」と命名。
新聞やテレビで取り上げられる機会が増えると、10月頃に飼い主が判明した。
城から直線距離で約6キロ離れた同市内の難波恵さん(40)で、7月14日に家から飛び出し、捜していたという。
かわいがり、子どもたちにも懐いていたため、当初は連れて帰るつもりだったが、「生きていてくれて本当にほっとした。居心地がいいのなら」と、家族会議で協会に譲ることになった。
だが、11月に再び失踪。
協会職員が取材に備えて家に連れて帰ったところ、逃げ出した。
チラシを配るなどしたが、見つからず、不安が募った。
19日後に発見され、「もうあんな思いをしないように」と、それからは本丸にある管理事務所内で飼育している。
協会は、昨年12月に正式に「猫城主」に任命した。
1日2回、リードにつながれながら城内を散歩するのが城主としての「お勤め」。
観光客の足元にすり寄ったり、ひざの上にちょこんと座ったりする「おもてなし」が好評だ。
協会によると、豪雨があった昨年7月の来場者は前年と比べて2割程度まで落ち込んだが、今年2月は4000人を超え、前年比1・4倍となった。
3月16日には語呂合わせで「さんじゅーろーの日」と定め、イベントを開催。
全国から集まった観光客らが、この日のために作られた撮影用ボードで記念撮影するなどして、ふれあった。
広島県大竹市から親子で訪れた女性(44)は「人懐っこくておとなしく、ずっと抱っこしていたいと思いました」と話し、小学3年生の娘は「かわいかった。城主としてこれからも頑張ってほしい」と笑顔だった。
協会は公式グッズとしてキーホルダーや絵はがき、無料通話アプリ「LINE」で使えるスタンプを製作しており、相原英夫事務局長は「さんじゅーろーを中心に商品開発やイベント企画など新しいうねりが起こっている。様々な団体と協力しながらよい流れを広げていきたい」と話している。
ネコの子育て
もう、とろけそうにカワイイ! (^_^;)
クレイジーな車
歴博リニューアル
▲弥生時代の高床倉庫でネズミからコメを守るネコ
数年前に見学に行ったことがありますが
充実した展示の質と量に圧倒されます
とても一日では見きれませんでした (^_^;)
日本唯一の国立歴史博物館である千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(歴博)。
先史時代と古代を扱う常設第1展示室が、昭和58年の開館以来初めてリニューアルされた。
同室の対象時代は、日本列島に現生人類が出現した3万7000年前から、日本を国号とする古代国家が成立した7~8世紀までの約3万6000年間に及ぶ。
弥生時代の開始年代が約500年さかのぼるなど、先史時代を中心に開館以降の36年間で大きく進歩した歴史研究の成果を反映させた、大規模かつ意欲的な展示刷新だ。
大幅に変化
「この30数年間、歴博は放射性炭素(C14)年代測定法などで多くの成果を生み出してきた。(展示は)われわれが学んだ40~50年前の教科書で描かれた歴史像から、大きく変わった」
今回の全面リニューアルの背景について、歴博の久留島浩(くるしま・ひろし)館長はそう語る。
考古学分野での自然科学的年代測定技術の発達により、縄文時代や弥生時代の区分や時代像は、36年前と比べて大幅に変化した。
第1展示室は6部構成。最初のコーナー「最終氷期に生きた人々」は、今回のリニューアルで大幅に拡充された旧石器時代(日本列島では約3万7千年前~約1万6千年前)を扱う。
まず出迎えてくれるのは、ナウマンゾウの実物大模型を中心に約4万年前の南関東の風景を再現したジオラマ。寒冷な気候を反映した針葉樹が目立つ植生は、現代の南関東とはだいぶ異なる。
最終氷期の「現代人」
次に目に入るのは、革なめしの作業を行う日本列島の最初期の住人たちの模型だ。そのかたわらには、製革作業に使われた石器が並んでいる。毛皮を丁寧に加工した衣服をまとったその姿は、現代の極地に生きる民族とよく似ている。
「旧石器時代人というとかつては野蛮で原始的なイメージを持たれていたが、実際はわれわれと変わらない現代人(ホモ・サピエンス)。当然、寒冷な環境に適応するための道具を工夫して作っていた」
そう説明するのは、コーナーを担当した同館の工藤雄一郎准教授。
1990年代まで、縄文時代の開始は気候が現代と同程度に温暖な後氷期に移行した約1万1千年前とされてきた。だが、最近の研究進展により、実は最終氷期まっただ中の約1万6千年前に土器が出現したことが明らかになり、従来の縄文時代の枠組みが問い直される状況になっている。
旧石器時代後期と縄文時代草創期は生活環境面では共通するものが多く、画然と区分できるものではないことが、この2つを「最終氷期人」として同一空間で扱うことで示されている。
繰り上がった弥生時代
時代はある境で急激に変化するものではないので、移行期も重視しなければならない。
時代ごとの変化や特徴を強く打ち出していた旧展示の反省の上に立つ、そうしたメッセージは、近年特に大きな研究進展があった弥生時代に関しても示されている。
一般に水田稲作の開始をもって弥生時代の始まりとされる。
その時期は従来、紀元前5世紀ごろとされてきたが、今世紀に入ってからの歴博の研究によって紀元前10世紀に九州北部で水田稲作が始まっていたことが明らかになり、弥生時代の開始を約500年繰り上げる説が定着しつつある。
コーナーを担当した藤尾慎一郎教授は、「繰り上げの結果、稲作を中心にする人と、縄文的な文化で暮らしていく人が併存する段階が約600年にわたり日本列島に併存したことになる。そこをどう表現するかが一番難しかった」と明かす。
展示では、朝鮮半島から九州に伝わった水田稲作が農耕社会を成立させ、西日本から東日本へと拡散していく様子が地域差に留意しつつ描かれている。
“大発見”も反映
弥生時代をめぐってはもう一つ、近年の目覚ましい“大発見”も反映されている。
穀物を保管する高床倉庫の再現模型の入り口に陣取るのは、かわいらしい2匹のネコ。
従来、イエネコは経典などの重要書物をネズミの害から守るため、奈良~平安時代に渡来したとされてきた。
ところが近年、長崎県壱岐市の遺跡から弥生時代中期頃のイエネコと推定される骨が出土。
日本へのネコの移入時期が一気に数百年さかのぼることになった。
「穀物は相当、ネズミの害があるもの。ネコがいてもおかしくない」(藤尾教授)
全体的に重視されているのは、再現模型などを多用した「可視化」だ。
たとえば銅矛や銅鐸、鉄剣などの金属器は、緑青やさびにおおわれた実物とともに、新造時を再現した複製品も展示。
金属製品の複雑な造形やまばゆい輝きが、石器や木製品ばかりの世界で生きてきた人々にどのような印象を与えたかを追体験させてくれる。
現段階の先史・古代史研究の先端が詰まった、充実の展示だ。
国立歴史民俗博物館(歴博)
一般600円。月曜休館。
問い合わせは、ハローダイヤル03・5777・8600
アグネス・ラム
佳子ちゃん 大学卒業
ダンスが大好きな 皇室アイドル・佳子ちゃん
「相手はいるか?」のアホ質問に対する回答が
「きっぱりしていて良い!」と大好評です (^_^;)
秋篠宮ご夫妻の次女の佳子さまは22日、国際基督教大学を卒業するのにあたって、記者団の質問に文書で回答を寄せられました。
以下、回答の全文です。
大学卒業を迎えての感想は
(佳子さま)
大学卒業を迎え、学生生活が過ぎるのはあっという間であったと感じております。また、恵まれた環境で過ごせたことを大変ありがたく思っております。
学習院大学では、約1年半、教育の分野を学びました。国際基督教大学では、英語で学ぶことも含め、幅広い分野を学び、最終的に心理学を専攻いたしました。一つの分野を集中的に学ぶことも、幅広く学ぶことも、どちらも非常に意義のある経験であったと感じております。
学業以外では、仲良くなった友人達と一緒に食事をしながら会話を楽しむなど、どちらの大学でも思い出深い学生生活を過ごすことができました。
国際基督教大学の在学中に短期留学をしたリーズ大学では、日本では学ぶ機会の少ない、舞台芸術に関わる分野や、国際基督教大学で専攻していた心理の分野などを含め、幅広く学びました。
上に書いたことと重なりますが、一つの分野を集中的に学ぶことも、幅広く学ぶことも、どちらも非常に意義のある経験であったと感じております。
印象深かったことは、留学中の一連の経験と言えます。英語で学び、英語で生活をしたこと、様々な国の人と交流し、いろいろな文化に触れたこと、今までになかった新しい視野を持つことができたことなど、多くの経験ができたので、留学をしていた約9ヶ月間は非常に印象深い期間でした。
どの大学においても、教職員の方、仲良くなった友人達、大学に通うに当たりお世話になった方々など、関わってくださった方々に非常に感謝しております。
今後の進路と将来の夢について
(問2)今後の進路と将来の夢についてお聞かせください。卒業後は公務に臨まれる機会もさらに増えてくるかと思いますが、大学での経験を生かし、どういった活動に力をいれていきたいとお考えでしょうか。同じ国際基督教大学で学ばれた眞子さまは大学卒業後、イギリスのレスター大学大学院に留学されましたが、佳子さまはそういったご希望はありますか。
(佳子さま)
公的な仕事は以前からしておりましたが、卒業後はその機会が増えることになると思います。どのような活動に力を入れたいかについては、以前にもお答えしたことがありますが、私が何をやりたいかではなく、依頼を頂いた仕事に、一つ一つ丁寧に取り組むというのが基本的な考え方です。
これまで行った仕事は様々な分野のものがありました。大学生活で、一つの分野を集中的に学んだ経験も、幅広く学んだ経験もこれからの仕事に活かすことができれば嬉しく思います。
将来の夢は、あくまでも夢ですので、以前と変わらず自分の中で温めておきたいと思っています。大学院への進学は現時点では考えておりません。
ご家族について
(佳子さま)
両親には、公的な仕事に関することや、意見を聞いたほうが良いと感じる事柄についてアドバイスを求めることがあります。姉とは日常の出来事をお互いに報告しあったり、相談事をしたりします。弟とは、姉と同じように日常の会話をしたり、一緒にテレビを見たり、遊んだりしています。姉と弟と3人で話をしていると、非常に楽しく、たわいもないことで笑いが止まらなくなることもあります。
卒業に当たり両親に伝えたいことですが、上に書いたように、私は公的な仕事に関することや、意見を聞いたほうが良いと感じる事柄について両親にアドバイスを求めることがあります。そのような際にアドバイスをもらえることに感謝しています。姉は、小さい頃から私のことを非常にかわいがってくれましたし、いつでも私の味方でいてくれました。いつもありがとうと思っています。今年の春から中学生になる弟へのメッセージですが、楽しく充実した日々を過ごしてほしいと思います。
印象的なアドバイスについては、公的な活動への取り組み方ということが挙げられます。問2でお答えしていることと重なりますが、公的な仕事は、自分が何をしたいかで選ぶものではなく、依頼を頂いたものを一つ一つ丁寧に行うという考え方は父からのアドバイスであり、母と姉も共通して持っている認識であると思います。
結婚の時期や理想の男性像について
(佳子さま)
結婚の時期については、遅過ぎずできれば良いと考えております。理想の男性像については、以前もお答えしていますが、一緒にいて落ち着ける方が良いと考えております。相手がいるかについてですが、このような事柄に関する質問は、今後も含めお答えするつもりはございません。
姉が結婚に関する儀式を延期していることについてですが、私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています。
また、姉の件に限らず、以前から私が感じていたことですが、メディア等の情報を受け止める際に、情報の信頼性や情報発信の意図などをよく考えることが大切だと思っています。今回の件を通して、情報があふれる社会においてしっかりと考えることの大切さを改めて感じています。
皇位継承について
(佳子さま)
天皇陛下と皇后陛下のご活動についてですが、両陛下は約60年の長きにわたり、様々なご活動に心を込めて取り組んでこられました。このことを、大変尊敬申し上げております。様々な事柄に対して、まるでご自身のことのように、時にはお心を痛められ、時には喜ばれるご様子に触れ、強く心に残るものがございました。
公的な場以外でお目にかかる際にも、私たち若い世代にとって大切なことをお話し下さいます。このように、真剣な思いを持っていらっしゃる両陛下であるからこそ、ご活動の際にそのお心が自然と伝わってくるのではないかと思っております。
皇太子殿下、皇太子妃殿下についてですが、両殿下は5月に天皇皇后両陛下になられます。私は大学を卒業し、皇族の一員としての活動が以前より多くなってまいりますので、そのような中で、少しでもお二方のお役に立つことができれば誠に嬉しく思います。
皇族の減少などの課題につきましては、制度のこととも関係しますので、回答は控えたいと思います。
肉屋 vs ヴィーガン(菜食主義者)
肉屋の前で抗議活動を始めたヴィーガン(菜食主義者)
肉屋のおばさんがブチギレています
肉食がイヤなら、自分だけ野菜を食べてればいいのに
それを無理やり他人に押し付けるから混乱します
(^_^;)
眠たい子猫
上野東京ライン
日本の鉄道は 本当に素晴らしいんですけど
地方の各駅停車が だんだん減ってきているのが
青春18きっぷファンとしては 少々残念です (^_^;)
日本を定期的に訪れている筆者(英国人 Colin Joyce)は数年前、都内に「上野東京ライン」という新しいJRの路線ができたことに気がついた。
上野駅と東京駅はすでに結ばれていなかったか? そう思い、やや困惑した
なるほど、それは都心を走り抜け、5つの都県を一度も乗り換えることなく縦断できる路線であることが分かった。
複数の路線を結ぶ難しい事業を見事に成し遂げたことで、乗客の利便性は高まり、世界最先端の日本の公共交通はさらに良くなった。
南北270キロメートルにも及ぶ鉄道路線の名称に、徒歩で行き来できる都心の2つの駅名を使うのは、かなり控え目なことに思えた。
しかし、それこそ日本人が自分たちの大きな業績を正しく評価しない、「平成」という時代の典型だった。
平成で成長した日本サッカー
同世代の日本人と違い、筆者は平成以外の日本を知らない。
1992年に英国から来た私には、バブルの記憶も、昭和への郷愁もない。
平成時代に対して日本人の多くが抱く「停滞」さらに言えば「後退の時代」という見方を理解しつつも、自分でそう感じることはなかった。
私は、自分が出会ったこの国に深く感銘を受け、特筆すべき改善する力や、遅れを巻き返す能力に目を見張っていた。
後者の例として挙げられるのはサッカーだ。
私が学生として神戸に初来日した当時、日本はサッカーの「へき地」だった。
しかし、1993年のJリーグ発足は日本を強豪国へと押し上げた。
日本代表は実力をつけ、国内リーグの人気は高い。
スタジアムは素晴らしく、サポーター層も磐石。
欧州に渡ってトップリーグでプレーできるようになった選手もいる。
関西を代表するクラブチームといえば「ガンバ大阪」。
1993年当時、そう思っていたことを覚えている。
大阪にもう1つ、さらに神戸、京都にもクラブができる余地があるなど想像もしなかった。
これはすべて一世代の間に起きたことだ。
おっと、2002年に日韓が共催したワールドカップ(W杯)の成功に言及し忘れるところだった。
複雑な直通運転の謎
日本について語り出すと、申し訳ないが鉄道の話が止まらなくなる。
運賃が高く、時刻表は当てにならず、腹立たしいほど遅れがちで、運休することもある(そして休暇シーズンには代行バスに切り替わる)英国に比べ、日本の鉄道の旅がどんなに素晴らしいか、皆に伝えたくて仕方がない。
来日当時、この国の鉄道システムはすでに十分素晴らしかった。
北は盛岡、南は博多までしか新幹線が延びていないのは当然のことと受け入れていた。
日本の大部分がカバーされていると感じたし、そこから先に行きたければ、特急列車に乗り換えるか、最初から飛行機を利用すればいいと考えていた。
都内を電車で移動するにも、JR山手線を乗り降りして私鉄のターミナル駅間を行き来するのをわずらわしいと思ったことはなかった(何しろ山手線は3分おきにやってくる恐るべき電車だ)。
しかし、そこに「上野東京ライン」が登場した。
他にも直通運転の路線が増えた。
電車に乗ったら途中で別の会社が運行する路線に変わり、その先はおそらくまた別の会社が運行している。
技術的な問題をどう解決したのかは言うまでもなく、運賃をどう分け合っているのか、どの会社が運転手に給料を払っているのか、私にはまったく見当もつかない。
1つではなかった本州と四国を結ぶ橋
1988年に開通した瀬戸大橋も偉業だと感じた。
行きは電車、帰りは大型トラックをヒッチハイクして橋を往復した。
そして英国に住む家族に、5つの島にまたがるこの驚くべき「2階建て橋」について手紙を書いた。
日本は本州と四国を結ぶ橋を完成させた──。
当時はそれで終わりだと思い込んでいた。
もう1つの連絡橋プロジェクトが進行していた事実に気づかなかったのは、そのせいだろう(後に3つ目の橋建設も始まる)。
恥ずかしいことに、神戸から四国まで、岡山を通らずバスで行けたことに驚いたのはそれから10年後のことだ。
同じく東京湾アクアライン連絡道の建設も、2003年ごろ飛行機から見るまで気づかなかった。
橋梁部がトンネルに変わって海中にもぐる部分が、なぜ水であふれないのかはいまだに謎だ。
「平成日本」は総じて安定
平成の30年間に日本が直面した深刻な問題を、軽んじるつもりはない。
自然災害、政財界のスキャンダル、増大する政府債務、終身雇用の崩壊と非正規労働者の増加、高まる自殺率、少子高齢化など枚挙にいとまがない。
いずれもこの国が解決しなくてならない重大な問題であり、日本で記者をしていた頃は、深く憂慮しながら取材をした。
しかし、平成日本に暮らした1人として、この国の社会は総じて安定しており、回復力と対応力を備えているとも感じていた。
経済危機が、ロンドンで起きた暴動のような社会の不安定化につながらなかったことをうれしく思っていた(私が物心ついてから、大きな暴動だけでも4回起きている)。
最後にもう1つ、日本で不思議だったのは外国人観光客が少ないことだった。
英国は、1990年代初めまでに年間2000万人の観光客を受け入れていた。
卓越した観光資源と交通インフラを備えた魅力的な国であるにもかかわらず、日本の実績は明らかに実力を下回っていた。
今はそれがどうなったか。私がここで話すまでもないだろう。
筆者 コリン・ジョイス(Colin Joyce)
英エセックスを拠点に活動するジャーナリスト。
オックスフォード大学卒業後、日本語を学ぶため1992年に来日。
埼玉県の高校で英語を教えた後、週刊誌ニューズウィーク日本版に4年間、英紙デイリー・テレグラフ東京支局に7年間勤務した。
15年に及ぶ日本での生活をもとにした「『ニッポン社会』入門──英国人記者の抱腹レポート」(NHK生活人新書)、「マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>」(同)などの著書がある。
*本コラムは、ロイターに掲載され、筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
英国人でコリンと言うと
どうしても、コリン・ウィルソンを
思い出してしまいます (^_^;)