▲合格祈願の絵馬の量がスゴい! (^_^;)
▲合格祈願の絵馬の量がスゴい! (^_^;)
▲安田講堂を横から見上げたところ (^_^;)
先日、古本屋で買った本の2冊目
吉田東州「日本風土記」は、割と俗っぽく県民性を語ってます
この本はもう少し学問的
徳川時代の幕藩体制下における地域社会にメスを入れているようです
(^_^;)
貧しい生まれだが頭が良くて成り上がっていく
ソフトバンクの孫正義(←)を思い出しますね
貧しさやコンプレックスには
人を駆り立てる上昇パワーもありますが
どこか不安定な影のようなものも感じさせます
無教会派、生長の家、共産党、新興宗教GLAなど
宗教カルトを転々とした父親、中川忠義の人生が
中川隆(大川隆法)の人生に、大きな影響を与えたのは間違いなさそうです
父親のカルト体験から「カルト教祖はイケる!」と確信した商社マン中川隆(大川隆法)は
持ち前の頭脳を生かして「洗脳の科学」を研究し実践しました
((((;゚д゚))))
「幸福の科学」の教祖、大川隆法こと中川隆は、昭和31年(1956年)7月7日、父・中川忠義(幸福の科学内部での通称は善川三朗)母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町大字桑村に生まれた。
徳島からJRで40分ほどいった川島駅前の敷地20坪足らず、モルタル2階建ての小さな生家はいま空き家となっており、両親は現在、徳島市八万千鳥の敷地約120坪という、かなり大きな会員宅を無料提供されて住んでいる。
中川隆のこれまでの軌跡をたどるには、その父の中川忠義について触れなければなるまい。
中川忠義は大正10年(1921年)11月、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・鴨島町)に生まれた。
地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていた。
その生活は村でも最底辺であったという。
その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活は いっかな好転せず、昭和9年(1934年)、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。
麻布台のボロ家に身を寄せた一家は、思い思いの働きで貧しい家計を支えた。
忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった「生長の家」の門をたたき、谷口雅春から じきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。
戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。
だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。
当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙「徳島新報」の編集兼発行人をつとめていたという。
「只芳という名前から、ロハさんと呼ばれていた。共産党に入党はしていなかったが、機関紙の編集兼発行人だったから、みんなからは「アカ」と思われていた」
日本共産党中央委員会の理論政治誌『前衛』1984年11月号は「わが地方の日本共産党史(V)」として、徳島県を特集している。
そこにも古い活動家として中川只芳の名前が紹介されている。
共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。
その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。
忠義にようやく経済的安定の道がひらけるのは、かつて日共の運動仲間だった県畜産課職員を頼って、昭和39年(1964年)4月、社団法人・徳島県畜産会に就職してからのことである。
この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。
多感な性格から政治的活動や宗教的遍歴を重ね、常に経済的不安につきまとわれてきたその忠義は、毎晩のように子供に向かって宗教に関する話をした。
その一方で、強烈な一流志向と上昇志向を植えつけた。
「どんな田舎の学校であっても、
どんな小さな学校であっても、
一番だけは違うよ。
どんな狭い地域社会においても、
一番だけは値打ちがあるかもしれないよ」
片田舎での英才教育。
中川一家の近所での評判があまり芳しくないのは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。
「人柄は悪くはないんだが、忠義さんは ちょっと人を見くだしたところがある。
君子さんは君子さんで、あんまり息子自慢をするものだから、
誰もあの床屋には行かなくなってしまった」
佐野眞一著『幸福の科学主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち』から
オウム真理教や統一教会の教祖に負けないくらい、ウサン臭さのカタマリのような教祖でしたね
もちろん、初代というのは成り上がりですから、どんな偉大な教祖でも生存中の同時代人からはウサン臭い目で見られて、ときには弾圧されたり石を投げられたりします
とにかく、カルト宗教屋に洗脳されダマされて壺を買ったり大金を寄付したりするアホがいるから、カルト教祖は三日やったらやめられない訳です
元商社マンの教祖で、宗教をビジネスとして「洗脳の科学」を研究し、人の心の弱みにつけ込んで、洗脳ノウハウを磨いたようです
それにしても、意外とあっさり「死んだ」と公表しましたね
真言密教では教祖空海は未だ入滅しておらず、千年以上過ぎた今でも高野山では、教祖のために毎日食事が捧げられています
それをマネたのか、某S価学会でも「教祖は今でも生きている!」ということにしているようです
正確には教祖ぢゃないし、どうでもいいけど
(^_^;)
カルト宗教「幸福の科学」の教祖、大川隆法(66)が死んだ。
大川隆法は2/28、港区の自宅で倒れ、病院に搬送された。
3/2午前に死んだが、死因は不明。
最近、YouTubeで毎日聴いているこうの紫(ゆかり)さん
男の「好き」と女の「嫌い」にはウソが多い
などといいますが、江戸情緒がしっとりいいですね
(^_^;)
第四回 紫の會(ゆかりのかい)
2019年2月2日(土)
Rainy Day Bookstore & Cafe<港区西麻布>
出演:こうの紫(ゆかり、唄・三味線、→)
花柳中太郎(日本舞踊)
島村聖香(邦楽囃子・打物)
望月美沙輔(邦楽囃子 笛方)
主催:こうの紫 細棹三味線研究会
いつも前を通る古本屋には、店先の百円コーナーに大量の本が並べてあります
昨日、ふと立ち止まって見ていたら、上のような古本があったので買いました(他に4冊、ぜんぶ1冊100円)
以前に買った本が大量に「積ん読」になっていたりするので、最近は本を買うことが少なくなりました
しかも大抵の本は、アマゾンで注文すればすぐに(1~2日くらい)で送られてくるので、街の本屋で買うことは本当に少なくなった
そのせいで本屋が壊滅的に減っているのは悲しいことなのですが、やはりアマゾンの便利さにはなかなか勝てない(文明とは「便利さ」のことだと思います)
上の本は、昭和42年(1967年)発行ですから、半世紀以上も前の本です
当時の日本全国の県民性を扱っています
私は歴史がダイスキで、その中でも特に普通の人々(平民とか農民とか庶民)の生活や生き方の習慣、世界観がどんなだったかに興味があります
柳田國男(→)や折口信夫らによって始められた民俗学のテーマですね
千葉県の佐倉市には、国立歴史民俗博物館(↓)というのがあって、日本の各時代の風俗習慣を実物展示しています
10年くらい前に見学に行ったのですが、展示量が膨大でとても1日では見切れず、また行きたいと思っています
今でも我々の日々の生活やものの見方考え方には、江戸時代やそれ以前から続く風俗習慣が根強く残っていて面白い
しかも風俗習慣には地域性があって、今でも関東と関西では別の国かと思うようなことがありますよね
これをさらに細かく分けて「県民性」として見ているのが本書のテーマです
交通や通信が発達して、県民性がだんだん薄れていくのは社会の必然ですが、完全に消え去るには、まだ長い時間(何世紀も)かかるような気がします
(^_^;)
国立歴史民俗博物館
国際的な観光地である奈良の鹿は世界的に有名です
奈良の鹿が横断歩道で、クルマが止まるまで待ってから道路を渡る動画が、海外で話題になっています
奈良の鹿は信号機が読めて、ちゃんと青信号になってから渡る動画も、見せてあげたいものです
(^_^;)
■海外の反応:
・なんて頭の良い鹿だ。
・交通ルールを守る鹿がいるなんて。
・こんなことができる鹿が日本だけだろう。
・日本は動物までよく躾がされてるんだな。
・ここの鹿は道路を横断するやり方を学んでいるようだ。
・アメリカの歩行者よりも歩行マナーが優れている。
・この鹿は渡ってる時にお辞儀までしていた!
・そんなに驚くべきことでもないよね。日本人は本当にマナーが良いんだからさ。
・日本の鹿は日本式の教育を受けているのだろう。
・一方アメリカの鹿は・・・
・テキサスだと鹿は自殺するように車の前に飛び出してくるからな。
・日本の鹿をニュージャージー州に何頭か連れてきて、こっちの鹿に横断歩道の渡り方を教えさせるべきかもね。
・この映像を見るとカンガルーが馬鹿に見える。
・でも鹿が渡ろうとしてるのに止まってあげない車も多いんだな。
・日本人は動物に優しくないようだ。
・車は横断歩道を渡る人がいたら止まらないといけないはず!
・↑信号機がある場合は信号機に従うのが普通だけどな。それにこの場所は鹿が沢山いるから、鹿を優先にし過ぎると車が全然前に進めなくなってしまう可能性もあると思う。
▲多くの鹿は青信号になって渡りますが、人間社会と同じように、
赤信号で渡るDQNな鹿もいるようです (^_^;)
71歳を迎え、記念発売される『坂本龍一 音楽の歴史』より、彼の足跡を一部抜粋。
三島由紀夫の担当編集者でもあった父・坂本一亀の長男として生まれた。
1970年、新宿高校を経て東京藝大に入学した日々を辿る。
(^_^;)